2008年8月31日日曜日

朝の苛立ち

 ここ数日、朝なんでもないことをきっかけに苛立ちを感じている。原因ははっきりわかっている。来月の銀行口座からの引き落としが落とせるかどうかという不安によるものだ。
 一方では弁護士のアドバイスで、払えないものは払えないと言って利子を免除してもらうとかローン会社にお願いするという方法があるということに従おうという気持ちもあるのだが、一方ではやはり銀行との信用関係を崩したくないという自分の気持ちがあるし、自分の借金を返済することは社会人として当たり前のことだからと思う気持ちが出てくる。

 結局ネットオークションなどでこれまで意味無くそのときの気持ちのままに購入してきたまま使わないでいたものを処分して何とか支払おうとしている。

 結局は自分にとって有利になるよう立ち回っているんだけどね。でもまぁ、無駄なものを処分するのは、それ自体はいいことだとも思っている。必要なら必要なときがくれば与えてくれるだろう。

 自分に出来ることを精一杯努力していって、それでもどうにもならなくなったら、そのときは仕方ないとも思っている。ただ、妻からはこの借金については一切家計からは出さないと宣言されている。それも当然なんだけどね。私のおこづかいは週3000円。タバコを止めればその内2000円は残せるんだけど、今はまだ禁煙というストレスを自分に加えたくない。過去に半年ほど禁煙できたんだけど、結局これも実家とのトラブルをきっかけに崩れたからなぁ。

 とにかく今後は実家との関係を一切自分のほうからは絶つこと、実家の方から来ても事務的に処理するということに徹すること、感情的なものがこみ上げてきたらミーティングで卸すこと、この鉄則を忘れないようにしないとまた崩れる。彼らはもはや私とはなんの関係も無い他人である・・・そう思わなければどうにもやりきれない思いばかりになってしまうから。不安材料は兄を介護している母が倒れたら・・・ということ。でも私は絶対兄は引き取らない。それだけはしっかりしておかないと自分が壊される。
 彼自身も「犠牲者」であるということはわかっているが、彼は破壊的過ぎる。

2008年8月30日土曜日

休職中のこと その2

 この休職中に私は大きな体験をさせてもらった。自分の人生にとって、恐らく非常に大切な経験だったと思う。それは、「中間施設」というところに通わせてもらえたこと。
 休職して家の中のお掃除などが終ったところで、さて次は何をしようか・・・と考えていたとき、まず最初は何か資格を取る勉強でもしようか・・・と考えて通信教育関係の資料を集めた。社会福祉士、介護士、行政書士、などなど・・・でも自分の中の問題に気付いていなかった時だったので、どうしても動機がマイナス思考にはまりがちになっていた。
 そんな時にホームグループの先行く仲間から「中間施設に行ってみたらどうか」という提案を受けた。最初は自分のプライドが拒絶反応を示した、「そんな行政の生活保護を受けているやつらと一緒にミーティングしたってなんになるんだ・・・」と。
 だが、ちょっと考え直した。「そういう自分は何者なんだよ」結局アル中で仕事の中で生きづらくなって休職している状態じゃない。
 先行く仲間から、スリップした仲間にとっては中間施設で徹底的に最初からプログラムをやることが一番の早道なものなんだ・・・と。
 とにかく職場の人間関係での恨みや怒りで狂って苦しんでいた私は、とにかく先行く仲間の提案に従って見ることにした。

 初日の面接で所長からずばりと言われたのは、「ソーバーの長さに対して決定的にミーティングの参加量が少ない」ということ。これはその通りだった。そして自分の問題(借金のこと、職場のことなど)を話した。「まぁ今日から通ってとにかくやってごらん」ということだった。

 ミーティングでは自分なりの内面を吐き出し続けた。最初の内は職場の人間関係での問題と自分の借金の問題でのことばかりだった。他のメンバーは生活保護を受けている仲間がほとんど。仕事も家庭もなくしている人たちばっかり・・・でも次第に、この一人一人がそれぞれに人生で輝いていた時期もあり、それが酒での問題から転落してきた結果、何もかもなくしてしまったけれども、そこから這い上がっていくんだという意気込みの強さを感じるようになった。私にはこういう意気込みは欠けていた。甘かった。アルコールを嘗めていたし、アルコールが脳にもたらした被害についても甘かったことを思い知らされた。そして彼らから見れば、妻も仕事もありながらどうしようもないことをして借金だらけになっている私はかなり重傷者であると思われていることもわかった。

 自分は軽症だと思っていたけれども、それは単にたまたま運がよく、仕事での融通が利いていたからであって、実際には25・6で底をついていた重症なアルコール依存症だった。
 考え方のゆがみも彼らと私とでほとんど違いは無かった。

 私の運のよさは、A)妻が健康な心の持ち主だったこと B)長男が重度の知的障害児だったこと C)仕事での融通が利いて自由だったから自分なりの努力でどうにかごまかしが利いていたこと。
 そして決定的には私がアルコールを手放してから次男を授かったこと。

 ミーティングで自分のことをはき続けているうちに、自分の内面に変化がおきていった。その1でも書いたように、自分の問題の根源が見えてきたということ、そしてその問題に対するアプローチが決定的に間違っていたことを認識したことだ。

 中間施設のルールは厳しいものでもあるが、自分にとっては楽しいものでもある。どの仲間の話もすべて自分の問題と重なってくるし、自分の話を受け止めてくれている。「なるほど、このプログラムを徹底的にやっていけば、どんな重症なアルコール依存症者でも回復できる」と確信しできた。もちろんドロップアウトもある。しかし別名「アル中の最後の砦」と呼ばれているこの施設はドロップアウトするということは=再飲酒、死に至る道に戻るということでもある。

 この病気を抱えて生き続けるということは、いつも死への道と隣り合わせであるということを忘れないでミーティングに通い続けるということをおいて他にはない。「酒を飲めば死ぬ」「死にたくなければ飲まないこと」「しかし『忘れる』病気」。特にちょっと成功したり大きな衝撃を受けたりすると大きく揺さぶられる。自分の状態を毎日チェックしてプログラムを繰り返し繰り返しやり続けること。他には何もない。

 「自分たちはノーマルな人たちと比べて考え方も価値観も歪みやすい」ということを常に心の中でしっかりとつかみながら生きなければならない。こう書くととてもつらい厳しい人生のようだが、それほどのものでもない。なぜなら私たちには「仲間」がいる。AAの仲間ほど素晴らしいものは無い。そこには本当の平等と民主主義がある。プログラムから外れていけば死ぬけれどもプログラムにしたがっていけば天寿をまっとうできる。

 自分に与えられたもの、この人生をどのように生きるか、それは私たちがプログラムに沿って生きることによって実際に生きて示すしかない。

 神様、私におあたえください。
 私に変えられないものを受け入れる落ち着きを
 変えられるものを変えていく勇気を
 そして二つのものを見分ける賢さを
 私の意志ではなく、あなたの意志が行われますように。

2008年8月29日金曜日

「今日一日」One Day at a time

 自分にできることは「今日一日」ということだけ。もちろん「予定を入れない」ということではない。どんな今後の「予定」があったとしても、できるのは「今、この瞬間をどう生きるか」ということだけだということ。
 「今日一日」は朝起きてから夜眠るまでの生かされている時間をどうすればもっとも有意義で楽しいものにできるかということ。時には休息も必要だし、目一杯働くことも必要だろうけれども、それはすべて自分次第で変わっていくもの。無駄な時間を増やせばその分やらなければならないことにかけられる時間は減っていく。けれども自分には「無駄」と思える時間が必要なときもある。
 自分勝手に判断しない・・・私の意志ではなく、神の意志が行われますように・・・と。

 私という無力でちっぽけな人間にできることはわずかなことでしかない。せめて人の役に立つ生き方をしていきたいもの・・・と思いつつ、いろんな矛盾に悩んでしまう弱さを抱えているのである。その弱さを受け入れつつ、精一杯生きる。

 今日この日をどういう一日にするのか・・・それを選ぶのは「私」なのだから。
 

2008年8月26日火曜日

休職中のこと その1

 5月19日から仕事の休暇に入り、6月1日から休職の扱いとなったのだが、その間の自分の変化を時間を追って説明していくと次のようになる。

 第一期 5月19日~21日
 第二期 5月21日~6月10日
 第三期 6月11日~7月10日
 第四期 7月11日~8月10日
 第五期 8月11日~8月22日
 第六期 8月23日~・・・

 第一期は自分が壊れていることを自覚して自助Gに戻るまでの葛藤の時間。この過程で大切な役割りを果たしたのが11月のアルコールのスリップの事実だった。
 自分が「アルコール依存症であるということを忘れないように、また、思い出させるためのスリップだった。神様が飲ませてくれた(今のところ)「最後の一口」だったのだと思う。
 それにしても、たった数日とはいえ、苦しい日々だった。自分が休職したことを他の理事によって「休職に追い込まれた」と錯誤していたこと、労働者の雇用についての知識がない理事長の「解雇するしかないか」という発言を真に受けたこと。恨みや怒りに狂っていた自分をどうにかしなければならないと思って自助Gのミーティングに行くことにした。そこで解決の方法が見つかるとは思っていなかったけれども、そこに行くしか他の方法がわからなかったからだ。

 第二期は自助Gにつながりなおすことができて、改めてOne Day Medalをもらって暖かく迎え入れてくれた仲間たちに感謝したこと。仲間とはこんなにありがたいものか・・・と最初につながったときにはわからなかった気持ちを感じることができた。これもスリップのお陰と思えば、やはりあの一口のバーボンはなんという神の愛!しかも一口飲んだとたんに2002年8月までの自分の苦しさが頭によみがえり、あの暗闇には戻りたくない!!という恐怖が襲ってきて残りを全部トイレに流すことができたのも神の配慮としか思えない。
 でもまだこの頃は家の掃除を徹底的にやって自分をごまかしながら妻に内緒にしていた120万の借金のことや仕事での恨みや怒りでいっぱいで苦しかった。自分にはもはや解決はないと決め付けかけていた時期でもあった。

 第三期は先行く仲間の紹介で中間施設につながった時からの一ヶ月。施設の所長からアドバイスやサジェスチョンをいただいて、少し考えが整理でき始めると、今度は急に「自分は治った」と思い込んで職場への復帰を焦った時期でもある。
 これも通所施設の所長と主治医からいろんなサジェスチョンをいただいて、自分と職場との関係を考え直していく必要があるということに気づきをもらった。職場はあくまでも仕事の場、仕事は生活の目的ではなく手段であるに過ぎない・・・これも手放すかどうか、それは自分が一人で決められる問題ではないということ・・・他の人を巻き込む問題では自分勝手な「正義感」で結論を出してはいけないものなんだ。自分がいなくても職場は回る。自分がそこに残りたいと思っているのかどうか。そして職場の方は私に何を求めているのか、そこを明確にしていかないことには同じことを繰り返していくだろうと思った時期だった。

 第四期は自分が壊れていったきっかけを見出した時期だった。職場でのストレスが自分が壊れていった原因だと信じ込んでいたけれども、崩壊が始まった時期を見直していったら、兄の意識不明とその後のいろいろな実務処理が落ち着いた頃から始まっていたことだと思い当たった。
 自分にとってとにかく大きな障害は、兄と母の共依存関係と兄の尊大さ傲慢さへの嫌悪、そして極度の高血圧、糖尿、痛風を発病していながら飲み続けて借金だらけにして住宅ローンの焦げ付きを作って父が残した土地も売らなければならなくなったことへの怒り、恨み、憎しみ・・・その一方で自分はプログラムにつながって(ろくに進めてもいなかったのだが)いることの優位性を見せ付けたいという自分の傲慢さ、兄を見下したいという幼い頃から抱えていた自分の問題が大元だったことに気付いたということ。従って職場での問題も結局煎じ詰めれば私の兄に対する見方のブレから生じていた人間関係上の問題点(尊大になったり卑屈になったり、自己評価の低さ)が露骨に出た結果だったということがはっきりしてきた。
 つまり職場の人たちは私に「八つ当たり」をされていて、それに対して「仕返し」をしただけ。自分に出来るのは自分側を掃除することだけだということに気づきをもらった時期だった。

 第五期は、これらの結果として、休職期間の終わりが近づくに連れて噴出してきた「恐れ」「不安」と向き合わなければならない時期だった。自分の側に問題があったのだとはっきりした中では、やはり「職場復帰が認められるだろうか」という「恐れ」「不安」が出てくる。しかし、これは謝るしかないことだ。「自分の非を認めるべきところは認め、今後の仕事で認めていただくしかない」と開き直りきれない自分だった。しかし「神様、私の恐れを取り除いてください」と祈ることと、どうすることがもっとも他人を巻き込まないで行ける方法なのか、ということを自分に正直に、しかし、他人を巻き込まないように行動することなのか・・・を考え始めた時期だ。

 第六期はそれを具体化していく時期になる。医師・施設の所長から「お墨付き」をもらって「職場復帰」を果たしてくことと、同時にミーティングの確保を医療上の必須事項として認めてもらうこと。職場の方がどういう条件を出してくるかは相手の問題だから私が考えても仕方の無いことだものね。
 

2008年8月24日日曜日

結果として自分に起きたこと

 2005年の兄の脳内出血での意識不明、そして実家の後始末という出来事の後、自分はどうなったのか・・・。この出来事で奔走している間、私は自助Gから離れてしまっていた。家での仕事もあり、「時間が無い」と自分に言い訳をしていた。
 しかし、自分がソブラエティを維持すること以上に大切なことはあるのだろうか。私もアルコールにつかまった体と心を抱えているのだ。いつおかしい方向に行っても不思議ではない体と心なのに、そのことを忘れていた。ただ兄や母に対する怒りや恨み、でもそれは感じてはいけない感情だと抑え込み自分を抑圧していた。「ありのままの自分」を正直に認めるというソブラエティを維持するために必要な最低限のことができなくなっていた。

 特に奔走している間は何も考えずに動き回っていればよかったのだが、兄の容態や母の生活がある程度落ち着いてきたあたりから心の奥底から湧き出てくる感情を自分で抑圧してしまっていた。
 
 普通に考えてみれば、例えば自分が大腸癌で手術して治って、その後の経過を観察している状態にある人が、兄が脳腫瘍になったからと言って怒りを感じるだろうか?まぁ百歩譲って生活習慣病で自分が食事制限をしていて、兄が同病であることがわかっていながら同じように食事制限をしていないからといって怒るのか?
 
 アルコール依存症というのはとてもやっかいな病気で、まず罹患していても自分が「依存症」であるということを素直に認めるものではない。自分の場合も認めるまでには相当な時間がかかったことを思えば、兄の場合も私以上にプライドが高い人間なのだからそう簡単に認めるわけは無いではないか。

 怒っていたのだから素直に怒ればよかった。自助Gのミーティングで怒りを吐き出して吐き出しながら受け入れていけばよかったのだろう。だが私はそうしなかった。自分の怒りを抑圧して表面に出さないように蓋をしようともがいているうちに自分自身の精神状態を悪化させ、自分の病気を買い物依存などにスライドさせ、借金を必要以上に増やして結果としてイライラを募らせて自己崩壊に向けて進んでしまった。2007年の11月に私はバーボンを一口飲んでしまった。幸い「酔った」という心地よさを感じることも無く、連続飲酒にはまることもなく済んだのだが、これも私にとっては大きなダメージだった。
 
 「自分がスリップした」という事実を受け入れることはできたが、このときはなぜそうなったのかという原因の本質まで掘り下げることはできなかった。
 ただ仕事のストレスが大きすぎるという表面的な部分の受け止めだった。確かに仕事のストレスもあるが、でも2005年まではそれをこなしてきたのだから、どうにも納得できない。そこで自分は自分を追い込んだ「相手」を探して決め付けてしまった。

 結局は4ヶ月の休職、職場にも大きな迷惑をかけてしまった。

 でもこの4ヶ月、私は1からやり直すという作業で先行く仲間から紹介された中間施設に毎日通ってきた。そこでのミーティング漬けの中でここまでたどり着くことができた。
 私はもう自分のこの新たに手に入れたソブラエティを手放したくない。兄や母がどうなろうとも、自分にとっては「そのときの自分にできること」だけに集中することが一番大事だと痛感した。背伸びをしても無理、むしろ結果は悪くなるということだ。

 だからこそ、今日一日に集中、自分自身に集中、今目の前のことに集中、これだけを大切にしていくこと。それに尽きるのだと悟ったのだった。

続きその2(試練と苦しみ)

 私は断酒を開始してから実に充実した生活へと変化していた。2004年の5月には次男も生まれ、夫婦の関係もすばらしく改善され、仕事も順調だった。自助Gへの参加も安定していたが、妻からはもう少し回数を減らせないかと求められていた。自分としてはこのプログラムからもらった新しい生活を大切にしたいという気持ちと、妻にこれまで飲酒で迷惑をかけてきたことへの埋め合わせとで悩みを抱きつつミーティングへの参加回数を減らしていっていた。

 そんな2005年の10月、実家の母から職場に連絡が入った。「兄が倒れて意識不明になった、救急車で病院に運んだ」というものだった。とるものもとりあえず病院に向かった。
 兄は手術中だった。母の話では朝、仕事に行こうと準備しているときに倒れたとのこと。父の脳梗塞を経験しているので動かさないですぐに救急車を呼んだとのこと。
 手術が終わり兄はICUに運ばれた。医師から説明を受けた。「血圧が200を超えていて、高脂血症で糖尿病で、通風もあって、それで酒を飲んでいたんだから倒れるのが当たり前でしょう。一体どういう生活管理をしていいたんでしょうかねぇ。脳の右側に出血があり、とりあえずできることはやりました。でも意識が戻るかどうかはわかりません」とのこと。
 「そんなに血圧が高かったの?」と尋ねると「高血圧は前からだったもの、父親だって高血圧だったし、それに脂っこいものが好きだったからねぇ・・・」「そういう問題じゃなくて、それをなんでほっといたのってことなんだけど」「だって私が言ったって聞きやしないもの」「だけど医者に行くようには言わなかったの?」「だって自分の体でしょう、自分でどうするかは自分で決めるでしょう、いい大人なんだから」。

 母はいつもこれだ。無理やりにでも病院に行かせるようなことはしない。ただ本人に任せて結果自分が困るということが分かっていない。

 兄は某大手ハンバーガーチェーン店に就職して店長までしていたのだが、1996年ごろ「仕事がきつい」と言って退職し、またもや母の紹介で中華の冷凍食品会社に転職、営業を担当して母の援助もあってかなり羽振りがよくなっていた。この会社の社長と母が同級生だったというコネだったようだが。
 この仕事には5年ほど就いていたようだ。一時は年収が700万くらいになって、本人も相当プライドを満足させたようだ。そして1997年に父が建てた家を壊して3000万ほどかけて家を新築した。「兄らしい家」と言おうか、ドアがやたらとでかく、間取りもでかく、二人で(兄が結婚したとしても)暮らすには妙に空間が多い家だった。自慢の家だったので私も新築祝いに呼ばれたが、私は行かなかった。1998年ごろに初めて行ったのだが、広々とした自分の書斎、ウォーキングクローゼット(なんで必要なんだ?)など自慢していた。「こんな家に住みたいだろう、でもお前は住まわせてやらないよ」と言われたが、私には「私の家」があるから「別に、住みたいとは思わないよ。ここは兄貴の家だろ」と言っていた。実際うらやましいとも思わなかった。兄は兄、私は私だ。2002年に私が断酒をはじめてから訪ねたとき、状況は変わっていた。
 兄は高収入の就職先を解雇されていた。2000年ごろのことだったらしい。母の話で聞いただけだったからよくは分からない。言うことが聞くたびに微妙に変化しているから。
 最初は「兄ははめられたのだ」と言っていた。「兄の働いている店でトラブルが起きて、その責任を兄一人にかぶせられたのだ」と。次には「先代の社長(母の同級生)が亡くなって、役員の入れ替わりのとばっちりで解雇になった」と。いずれにしても「兄には責任がなく、他者に陥れられた」という基調は変わらない。だが私としては、兄が多くの収入を得ていた裏には何か問題があったのだろうと思っている。入社して1・2年で年収700万なんて普通はありえない。先代の社長にひいきにされていた分他の社員からは恨みを買っていたのだろうということは容易に推測できる。

 いずれにしても解雇されたという事実、そして兄は警備会社のパート社員になった。年収は450万の減収。普通はこういう事態になれば住宅ローンの返済について相談に行ったり対策を立てるものだ。しかし兄はやていなかった。毎月7万とボーナス時に20万の支払い。年収が大幅に減って払えるわけがない。ましてボーナスもなくなったのに・・・。

 おそらく兄はこの解雇の経過の中で何か大きな精神的ダメージを受けていたのだろうと思う。
 
 奇妙なのはもうひとつ。兄は家を建てた翌年に結婚をしている。子どもができて「できちゃった結婚」というやつなのだが、出産が終わると相手は家を出て行った。3ヶ月ほどの形式的な結婚。「結婚した」という知らせを受けて祝いをしにいったが嫁さんには会っていない。嫁さんに会ったのは一回あっただけだった。そして3ヵ月後に「離婚した」という知らせ。あまりの速さにびっくりした。そして子どもの養育費を支払うということで調停したらしい。

 さて、こういう流れの後、兄は2005年に倒れた。3ヶ月間意識不明が続いた。その間、母に頼まれて私は兄の書斎や荷物を全部ひっくり返して「生命保険」「住宅ローン」「その他の借金・請求書」「銀行の通帳」などなどいろいろな書類を調べ、兄の部屋の整理もした。
 出てきたものは、解約された生命保険証書・焦げ付きがある住宅ローンの請求書・カードローンの総額80万・固定資産税の滞納100万・残高がマイナスの預金通帳だった。机の引き出しからは兄が昔の友人に金を無心したらしい手紙の返信もあった。「前回の貸し金の返済がまだ終わってないのにまた貸してくれと言われても無理ってものだ」という内容。携帯電話にはスナックの女性らしき人何人もから、「またきてねぇ、待ってるよ~ん」「今度ドライブつれてってね~」なんてメールがいっぱい。そして兄の送信も調子のいい言葉ばかり。そして突然携帯に電話がかかってきてうっかり出たら、「あのぉあんたさぁキートンさん?」「いえ、兄は脳内出血で倒れまして、私は弟です」「弟さん?でもいいか、とにかくさぁ、つけ払ってよぉ、いいかげんたまってるんだからさぁ」「いや兄は無理ですから」「あ、そう」どうやら兄は収入が減ってからもそういう現実を直視できないままあちこちのスナックで飲み歩いていたようだ。
 兄の職場にも連絡を取って担当者に会った。「パートですからねぇ、退職金はないんです。これはお見舞いです」と1万円だけ。「お兄さん大変でしたねぇ、でも給料の前借もあるんですよ、でもこういうことですからそれは請求しませんから」「はぁ、すみませんでした」給与明細を調べた。手取りは多いときで17万、少ないときは13万、そのうえ確かに前借が毎月4・5万と記載されていた。

 兄の手術代、入院費用が約50万円。母が支払えない分は私が職場の父母から個人的に借金をして支払った。その後も急性期が過ぎたらその病院からは追い出され、リハビリ病院へ。また3ヶ月50万。
そしてもう一回また別のリハビリ病院へ3ヶ月50万。母の生活費は父の軍人恩給の遺族年金、そして母のパート収入で総額20万に満たない。不足分は借金で補うしかなかった。
 そして実家(兄の家)を処分してローンを片付けなくてはならない。それには荷物を全部片付けて母の引越し先を探し、とりあえず住処をみつけること。アパートは知り合いが見つけてくれた。家賃が7万。未納のローンの返済も7万、兄の入院費用と定期的に行くための交通費、兄の家を売るにしても買い手がつかなければ兄の生活保護も申請できない。兄の家の片づけをすべて終えて売れる状態になったのが2005年末。2006年の3月4月という家が売れやすい時期に期待したが、車の出入りが不便という点がネックで決まらず。結局売却できたのは2007年末。
 兄は2006年の12月から入院先から母のアパートに移った。意識はまだはっきりしないこともあり、特に過去のことについては「覚えてない」といい続ける。本当に覚えていないのか、忘れたいからそう言っているのかはわからない。ただのんびりとしている。リハビリは痛いから行きたくないなどと平気で言っている。
 兄の生活保護が支給されるようになったのが2008年2月から。それまで一体いくらの借金ができたのかということも本人は知らん顔。家の売却益は全部ローンの返済と固定資産税の支払いで消えた。
借金だけは残っている。

 2005年までスムーズに進んでいた私のソブラエティ生活はこの兄の脳内出血で大きく揺さぶられた。忙しく処分のために動いている間にはあまり感じなかったのだが、とりあえず一段落ついた2006年度末にどっと疲れが出た。自分では仕事での疲れだと思っていたが、本当はこの実家を襲ったトラブルへの対応で疲れたのが大きかったのだろう。
 そして2007年にはひどいストレスが身体症状にもなって表れてしまった。借金を重ねているうちに自分もおかしくなって買い物依存になったりして被害を膨らませてしまっていたことで自己嫌悪や実家の家族への嫌悪感、そしてそういう嫌悪感を感じる自分を許せない自分の感情的混乱。

 自分の中では2006年の秋にはひどい疲労感を訴えていた。そして2007年にはまた飲んでいたときに支配されていた自殺願望も現れてきてしまっていた。どこかに消えてしまいたいという思いでいっぱいになり、もう自分の精神状態をまともに保つどころではなかった。
 理性的には実家の問題は自分がいくらがんばっても解決できないのだから、きっちりとできることとできないことを見極めて線引きすればいいのだと分かってはいるのだが、感情の中では処理ができなくなっていた。

 私にはどうしても休職が必要だったんだと理解した。そしてこの休職はとても大きかった。自分の心の落ち着きを取り戻すという上でも、ソブライティーを取り戻すという意味でも。

 今、私にできることは職場復帰に向けて、自分の問題をきちんと明らかにすること。そして実家の問題は棚上げにして自分のことに集中することだと思う。

 時間はかかったが、有意義だった4ヶ月だ。

2008年8月23日土曜日

続きその1

 私は大学にストレートで合格した(第一志望ではなかったが)のを機会に家を出た。出たくてたまらない家だったから出ることができて本当にうれしかった。
 大学の入学金は親が出してくれたが学費は自分で奨学金や仕事をしながら稼いで支払っていた。そして、自分の考え方や行動の仕方が異常であるということに家を出て初めて直面した。

 まず一つは感情の出し方がわからないということ。小学校高学年から高校まで、自分の感情を表に出すということを封じていたので(出すと兄や母から責められた経験の蓄積なのか?)感情に蓋をするということが通常の状態で感情を表に出すには酒の力を借りなければできなくなっていた。
 だから表面上は常に穏やかさを装っていたが、内面ではいろんなことで傷ついていたし、そういう弱さを嫌っていた。一方で酒の力を借りると感情の蓋が全開になり、激発して暴力は振るわないが泣いたり叫んだり走り出したりしていた。

 次に「働いて金を稼ぐ」ということには非常に勤勉だった。一年目は夜10時から朝7時までのファミレスでのアルバイトで月15万稼いでいた。だがその金の使い方はわかっていなかった。欲しいものを買うためにためるということもできないし、必要最小限のお金を残して後は全部無駄遣いをしていた。
 
 このアルバイトを通して朝酒を飲んで帰るようになった。昼夜逆転での朝酒のみでは身体を壊す。
 心配してくれた先輩がもっと楽で効率的な仕事を紹介してくれて、そこで働き始めた。社会保険も完備されていたので、胸腺腫になったときも休職手当てで保険十割給付という当時の制度で気楽な入院生活ができた。

 勉強については好き嫌いが露骨で、「単位を取るのが難しい」といわれている講義では毎回出席して特Aの成績をもらうのだが、「出席さえしていれば取れる」という単位は落としている。このあたりは天邪鬼で「楽に取れる単位には価値がない」という考え方をしていた。

 小学校高学年から高校卒業まで、それぞれの学校の図書室の本は図鑑や辞典、理化学系のもの意外はほとんど読破していた。特に高校の時には一通り西洋思想、東洋思想の本を読みつくした。カントヘーゲル、ニーチェ、キェルケゴール、ショーペンハウエル、陽明学、墨子、韓非子、史記、十八史略・・・。こういう素地があったから大学の講義でもつまらない講義は出なかった。
 こういう考え方だから結局大学を卒業することはできなかった。

 このころの自分は、自分の力、能力を充分過信していた。かんたんに単位が取れる講義を選択して確実に単位を取っていくほかの学生を内心バカにしていたのだが、彼らにしてみれば私の方がはるかに大バカだと思っていたことだろう。

 さて、この大学に入って自分で自由になった気分でえらそうな議論を私がしている間に、実家はどうだったのだろう。父は二回目の脳梗塞で倒れ、半身不随が酷くなり、その介助は母と兄がやっていた。兄は某大手ハンバーガーチェーンに母の知人の紹介で就職し店長をしていたが、恐らく兄にしてみれば脳梗塞をしても酒を飲んで好き勝手に過ごしていた父の姿は腹立たしいものだったろうと思う。
 二回目の時はさすがにあきれていたのだろう。

 三回目の脳梗塞で倒れ、入院したときには母も兄も「あれだけ自分がやりたい放題してきたんだからもう仕方ない」と言っていたし(痛風が痛いといろいろ言うくせにトンカツを食べていたなどどうにも救いようの無い状態だったようだ)
 そして父の葬儀で私は泣いた。私は父が好きだったし父の人生を私なりに理解していたつもりだったのだが、母や兄の気持ちは違っていた。「なんであんな奴のために泣くんだ、バカ」と兄に言われた。「だって親父じゃないか」と言うと「あいつのためにどれだけ俺やお袋が泣かされたかお前にはわからないんだ」といわれた。確かにそうかもしれない。毎日一緒に暮らしていた母や兄にとっては大変なことがたくさんあったのだろう。それに腹違いの姉たちと同居しなければならなくなったのも元々は父の無責任さに原因がある。そしてそのことで最も苦しみや怒りや不愉快な思いを抱いたのは母と兄だったのだろう。18で家を出て、すき放題に一人で生活をしていた私は彼らにしてみれば一番「お気楽な極楽とんぼ」だと思っていたのかもしれない。確かにそれも一面正しい。しかし私に「家」に対する帰属意識を無くさせてきたのも母と兄だったということも事実だ。私が実家に帰るたびに兄は私と一緒に酒を飲みながら「お前はなんにもわかっちゃいない」といい続け、最後には「お前の顔なんか見たくないからけえれ」と捨て台詞をはいたのも兄だった。

 父の死で私はもう実家に帰る理由がなくなった。そこには何もなかった。自分の居場所も、ほっとできる空間も。いろんなものがとっちらかった荒れ果てた家で私は嫌悪感しか感じることができなかった。

 こうして私は実家との関係を最小限にとどめるようになった。

 私は学生時代にある女性と同棲したりもしたが、やはり私の酒で破綻した。だが、彼女との生活費を稼ぐために始めた学習塾のアルバイトで、私は自分のこれまでまったく知らなかった一面を見出した。
 高校生までは私は絶対に子どもを対象とする仕事にはつきたくないと思っていた。なんでそこにこだわったのかはわからないが、「子どもを対象にした仕事」というものはあまりに責任が重く絶対に自分には向いていないしできないと信じていた。ところが学習塾の仕事で中学生や小学生に関わってみると、私自身が彼らとのコミュニケーションの中で癒され、彼らを励ますことで自分に力がもらえるということを感じていた。特に荒れた中学生たちと関わると彼らの純粋な思いやそれを阻んでいる現実、そして彼らに結果としてハンデとなっている学力不足、本当に生きる力としての学力というものを身につけていくための援助をしていくということが自分にはとても大きな喜びや勇気を与えてくれたのだ。
 だが、まだこのころは自分の思考方法や行動パターンの問題には薄々は感じつつも自覚しようという努力をするところまでは至らなかった。たぶん、「生きる力」というものの本質がまだわかっていなかったのだと思う。
 そしてこの職場は、私にとっては同棲していた女性との関係でのこじれや矛盾を浮き彫りにして別れるという結果をもたらし、その痛手から私は酒に沈殿し、解雇という結果をもたらした。
 けれどもそういう痛手と共に、そこでは今の妻との出会いというものも得た。

 そして妻となる人の勧めで現在の職場へと移って行った。

 新しい職場は新鮮だった。そこには「学力をつけさせなければならない」という枠も無く、自分なりに考えて工夫して子どもたちと一緒に生活のありようを作っていくという自由があった。そして妻との結婚を職場の父母たちがみんなで祝福してくれた。
 私と妻は私が酒を飲みすぎるという問題はあったが、随分二人で楽しい時間を共にした。

 その後この職場で現在まで20年以上働いているのだが、何度も職場の危機的な状況はあった。けれども多くの父母の協力もあってその度に乗り越えてくることができた。
 自分の酒は2002年9月2日まで止まらなかったが、職場で仕事中に酒に手を出したことはないし、酒での失敗も自分ではできるかぎりしないように努力した。いわゆる「つらすぎるくらいつらい努力」をし続けたというわけだ。なぜ2002年に酒を止める決意ができたのか、それは職場の施設の移転問題が発生し、居座るか移転するか、その財源は・・・という問題に直面して5月から8月までほとんど毎日仕事が終ってから、夜8時を過ぎると一人で記憶が途切れるまでバーボンをストレートで飲み続けて体が完全にギブアップをしたからとしか言いようが無い。9月3日に精神科に受診して(不眠・抑鬱症状が理由)「アルコール依存症」と宣告され、酒を止めて生きるか、酒にしがみついてぼろきれのように死ぬか」という選択を迫られ、私は生きる方を選んだということだ。

 結婚生活の20年の間にもいろいろあった。生まれてきた長男が一歳の誕生日直前に点灯てんかんを発症し、重度の知的障害児となったこと。それによって妻が退職し、長男の入院に付き添い実質妻の実家で孤独になったこと。けれどもこういうことはすべていいわけになる。それに妻の名誉にも関わることだからすべてを書くことはできない。

 だが酒を止めてから私には信じられない喜びがもたらされたことは事実だ。酒を止めることは意外と簡単だが、それを続けることはとても難しい。でも自助Gにつながって12ステップのプログラムにつながって自分の内面が変化してきたことは事実だ。まさにミラクルとしか言いようが無い。それほどこのプログラムには効果がある。

 だが、2005年10月に自分を試される試練が勃発した。

 この続きはまた明日。
 

2008年8月22日金曜日

自分が抑鬱症状に至ったわけ

 私は年度の切り替わりの辺りからひどい精神状況になり、結局5月半ばから休職せざるを得ないほどの抑鬱状態になってしまった。
 当初は仕事のストレスが原因?と思っていたのだが、この休職期間中にしっかり内観療法(ミーティング形式で行われる12ステッププログラム)に取り組むことができて自分のストレスの大本にたどり着くことができた。

 もちろん仕事でのストレスもあったのだが、それはむしろ自分で作り出していたという側面も多く、そういう問題を作り出してしまうような自分になってしまった大本は違うところにあった。

 「実家」というものは多くの人にとっては心の安らぐ癒しの場であるのだろうが、私にとっては「できることなら関わりたくない場」だった。理由は長くなる。少しずつ書いていくしかないだろう。

 まず私の成育歴
 私は3歳の時に埼玉の浦和に引っ越した。父が土地を買い、一戸建てを建てたからだ。間取りは一階が10畳のリビングと四畳半の和室、それにつながる変形四畳半の納戸のような北側の部屋、それに風呂と当時としてはめずらしい「対面式キッチン」。二階が10畳の和室・洋室半々の部屋と8畳の父母の寝室兼書斎?(実質父親の一人で酒を飲む部屋)。
 間取りから見ても建て始めた時は父母と私と兄の四人家族での生活を前提としていたとしか思えない。しかし母にとっても父にとってもそして兄にとっても思いがけないことが起きた。(父にとっては本来思いがけないということであってはいけないものであったと思うのだが)
 父には先妻との間に四人の娘があり、その先妻が結核で療養所での隔離生活となっていてこの四人の娘も一番上の姉は母親から結核をうつされ、療養所に、そして下の三人は児童養護施設に引き取られていた。しかし先妻が結核で亡くなってしまった。そして児童養護施設では認知している父のところに事情を聞きに来て、新しい一戸建ての家を建てるのであれば当然娘たちを引き取って育てるように指示を出した。

 母としては姉夫婦が小さな建売住宅で暮らしているすぐそばで、当時としてはモダンな自由設計での一戸建ての新築の家で夫婦と二人の息子の四人で優雅に暮らして自慢するという夢を描いていたのだろう。けれども、こうした夢は突然思春期に入った血のつながっていない三人の娘を引き取って育てなければならないという現実に直面した。当然多くの夫婦喧嘩が起きた。夢の新築一戸建ては「突然襲ってきた」「敵の娘」の「乱入」によって資金計画の変更、設計の一部変更を余儀なくされた。

 引き取ることには承諾したものの、生活は大きく変化した。優雅な四人家族から七人家族になり、実子である私と兄は予定通り二階の十畳を与えられ、私たち(当時私が3歳、兄が小1)よりはるかに年齢が上の姉たち(当時中二・中一・小5)は一階の四畳半と納戸のような部屋に押し込められた。
 まだ無邪気だった私は新しく「家族」になった「姉」たちのことをすぐに好きになり、「姉」たちも私のことをかわいがってくれた。しかし母と兄の心中は穏やかではなかった。母は二言目には「ボロボロの服で乞食みたいな格好をしてんのを引き取って服を買ってやって・・・」と愚痴をこぼす。姉たちの母親に対しては嫉妬もあったのだろうがぼろくその差別用語を使ってこき下ろしていた。
 そして私はそういう母の言葉を聴く相手はいつも兄だった。兄にしても、それまで長男として私が生まれるまでは一人っ子も経験して溺愛されてきたのが、姉たちの登場で自分の位置が脅かされていると感じていたのだろう。兄と母は明らかに共依存関係になっていった。
 父はだんだんと無口になり、家族の団欒も回数が減り、家族旅行もしなくなった。現存する写真を見ても、私が3歳までの写真はたくさんあるのに、それ以降は写真もろくにない。父の仕事からの帰りは遅くなっていき、帰って来てもすぐに二階の「書斎(酒飲み部屋)」にこもってテレビを見ているだけになっていった。

 こういう家庭内で緊張感がある状態の中で私は過ごしてきた。「三人の姉VS母と兄」その狭間で、なぜ仲良く暮らしていけないのか、どちらにも気を使い、無邪気を装い、時には母や兄に意見を言っては「お前は何もわかってないんだから黙っていろ」と沈黙を求められ、居場所がなくなっていくことを感じていた。父は気まぐれに私をかわいがってくれたのだが、あくまでも気まぐれだった。

 母は結局は姉たちを就職が決まりひとり立ちできるところまでは面倒を見て育て上げた。途中では父親の急死で生活に困った知り合いの息子(私と兄との間の年齢)を受け入れて育てるということまでした。基本的には面倒見がいい人なのだ。けれどもやはり兄が一番特別な存在であるということには代わりが無かったのだろう。この知り合いの息子を受け入れたのも私と兄との関係が悪化して兄弟げんかが耐えないのを変えるという意図もあったのかもしれない。

 兄は精神的に不安定だった。気まぐれで怒ったり怒鳴ったり、あるいは愛想良くしたり、私としてはまったく理解不能だった。兄は私が中学生の頃から私に酒の相手を求めた。最初は適当に相手をしていたのだが、だんだんと私も酒につかまって行った。高校生になった頃には兄が毎週末にアルバイトの給料で買ってくる酒を期待するようになっていた。非常にプライドばかりが高く、自分を大きく見せるのがとにかく癖だった。兄のこのプライドをちょっとでも傷つければ徹底的に怒鳴られ、ねじ伏せられた。
 勉強に関して言えば、だらしない割りに私は成績は良かった。特に高校に入ってからは急激に伸びた。浪人生だった兄にとっては私の方が勉強の方で成績が良いということも気に入らないと思う面もあったのかもしれない。

 私の心の方は小学校の高学年以降は固く閉ざされていた。兄とも酒を酌み交わすというところでは相手はしても自分の心の内の苦しさを吐き出すことはできていなかったし、兄との飲酒も最初は何気ない会話で始まり、途中でいい機嫌で陽気になり最後は大喧嘩の怒鳴りあいで終るというのがパターンだった。私は中三の頃小説を書いていた。稚拙なものであるが、すでに「死」を意識し、自分の中に時々突然訪れる「死」への誘惑を現実の「死」の醜さを描いていくことで「死」にはなんの解決もないという主題だった。「生きる」ということを積極的に肯定するというユーモアは持ち合わせていなかった。ただ「死にたくないから」「死んでも何も解決にはならないから」「生きている」という目的も方向性も見出せないけど生きている自分の苦しさが根底にあったのかと思う。もちろん自覚はしていなかったが。

 こういう育ち方をした人間にとって「実家」というものが「ほっとして安心できる場所」になるはずがない。「実家」はできれば二度と帰りたくない場所であり、自分にとってとても辛いものを思い起こさせる。特に父の死後、母と兄の二人暮しになった実家はもはや「家族の集合場所」ではなかった。

 ちなみに父の死に方は完全にアルコールに取り付かれた人間の末路だった。脳梗塞で軽い半身麻痺で仕事ができなくなり、酒量が増え、再度の脳梗塞で麻痺は悪化。糖尿も発症。そして三回目の脳梗塞で意識不明、糖尿の悪化による壊疽で右足切断、最後は院内感染での肺炎だった。
 「死因」だけ言えば「肺炎」だが、アルコール依存症者が死んでいく過程ではよくあることだ。
 「肝硬変」「糖尿病」「肺炎」といった死因の患者の中には、実質的にはアルコール依存症が大本の原因になっている人が多い。
 父が死んだ後、母は三人の姉たちに「手切れ金」として父の保険金からいくばくかを渡している。
 どうしても「和解」をする気にはなれないようだ。

 今日はここまで。


 

2008年8月21日木曜日

自分の建て直し

 自分が何でこの2年間壊れてきていたのか、何にストレスを感じていたのか、根っ子が見えるようになってこれからの課題もはっきりしてきた。自分の弱さが丸出しだったんだ。それもかなりひどいところまで土台が壊れかけていた。
 土台の再建には、壊れているところを直すだけじゃなくて、傾いてしまっていた上の方も改めて作り直していくことが必要なんだとわかった。

ミーティング・ミーティング・ミーティング・・・ミーティング漬けになって自分を吐き出し続けて仲間の声から自分の問題の根っ子がむき出しになっていく。なんて情け無い自分・・・とも感じるが、でも、これが自分。逃げていた頃に比べれば随分ましじゃない?
 
 まぁいいさ、こうして一日一日を確実に生きていくことができるようになれば、明日につながっていくんだからね。