2008年11月26日水曜日

怒り・・・コミュニケーションの不足と思い込み

さっき怒りが湧いた。昨夜自宅の階段昇降機が故障したのでメーカーの保守点検サービスに連絡したところ、今朝の9時ごろ連絡が来るということになっていた。そこで私が電話に出ることにしようと中間施設に午前は休むと連絡をした。次男を保育園に送っていって9時前に帰って来て電話を待ったが来ない。そこで連絡したところ、どうも行き違いが生じていた。
 義母が出かける段になって「さっき9時にエレベーターの方から連絡があって10時に来るって言ってたんだけど、その時間じゃ誰もいないから1時にしてくれればと言っておいたよ」とのこと。
 確かに、私が対応するということは家族全員に確認はしていなかった。しかも義母は最近とみに耳が遠くなってきているしボケをかますことも増えてきている。念を押すか、連絡先を私の携帯にしておけばよかったのだ。それに1時ということになれば中間施設に全く行けなくなってしまう。
 「誰が対応するのか」「どの時間帯に依頼するのか」を明確にしておくこと、「誰もいない」という思い込みで対応しないこと。ちょっとしたことではあるのだが、大抵の怒りはこんなところから発生するんだろう。

2008年11月22日土曜日

やはり、疲労・脱力・無気力が続く

 何をしたというわけでもない、ただちょっと職場のことで妻のルートから問い合わせがあったというだけのことなのだが、それだけでものすごく動揺して、ちょっと昔のペースでの話を電話で職員としただけなんだけど、それだけなのにすごい疲れている自分。
 やはり隔離された場所でのんびりと何も考えないで過ごすような時間が必要なんだと感じる。この疲れ方、脱力感は酷すぎるし、しかも自己嫌悪を引き連れてくる。勘弁してください。もう、ほんとに、ごめんなさい・・・という気持ちになる。

 走り続けた20年は私にこういう結果をもたらした。恐らく実質的にただ同然の退職金で追い払われる。俺はそれだけの人間なんだと思い知らされる。

2008年11月20日木曜日

なかま

 今通所している中間施設(アルコール依存症から回復して社会復帰できるように支援していく施設)への通所者が突然増えた。あっという間に5~6人入ってきた。病院を退院してすぐの仲間は大抵ぼ~っとしていて何がなにやらわからないまま人の話も聞けないで座っている。でも仕方ないんだ、本当にアルコールという奴は徹底的に身体も心も壊していく薬物だから。現実逃避の手段から現実が直視できなくなって逃避している泥酔状態での妄想を現実と思い込む倒錯した意識状態から、身体からアルコールを抜かれて(解毒点滴という穏やかな方法もあり、ガッチャン部屋という乱暴な方法もありだが)、実際のところ「浦島太郎」状態なのだから。はっきりしている記憶は酒が酷くなる前の「古きよき時代」だけど鏡を見ると確実に老けて、昔自分が自分に抱いていたイメージとはかけ離れた表情をなくした自分が映っている。一体いつの間にこんなになったんだ・・・訳がわからないはずである。
 身体にもあちこちダメージが自覚されてくる。最後救急車で病院に運ばれた仲間たちは、最初は歩くこともおぼつかない。ロボコンに出場しているロボットの方がずっとましって状態。足腰の痛み、血液数値の異常さ(栄養失調の後遺症によるカリウム、ナトリウムなどの欠乏や痛風など)歯もボロボロが多い。大体酒を飲み続けている時は歯を磨くなんてしないし、歯が痛んだら自分で無理やり抜いたりしてしまうくらいだったんだから。

 話ができるようになるまでに二週間から1カ月、通院治療で効果が出てきて体の故障が回復してくるのが2ヶ月~3ヶ月、ミーティングで人の話を聞けるようになるには早くて1ヶ月、中には3ヶ月くらいかかるなかまもいる。ミーティングのテーマを理解してテーマに沿った話ができるようになるのには半年くらいかかる。自分のおかれている状況や自分の身の回りのことを自覚できるようになるのもこのくらいかかる。一滴の酒も飲んでいなくてもこうだ。アルコールというものの威力、脅威、恐るべし。

 そして違い探しがあって、あら捜しがあって、夜のAAミーティングの棚卸が始まって、そこから本当の違いが出てくる。忠実にAAプログラムを進んでいくなかまと適当にさぼりながら体裁を繕っていくなかまと。「飲まなければ生きる、飲めば死ぬ」単純なことなんだが、飲まないためにはミーティングに出続けること。それがすなわち「生きる」ことを選ぶということだと思う。

2008年11月18日火曜日

犬の思い出

 まだ幡ヶ谷の借家に住んでいた頃、父・母・兄との四人暮らしで一匹の犬を買っていた。ダルメシアン系の雑種で白に黒い斑点のある中型犬だった。名前は「ポチ」変哲もない名前だが、私はこの「ポチ」が大好きだった。だから犬と言えば「ポチ」だったし、一緒に犬小屋で昼寝をしていたこともあったそうだ。 よちよち歩きの頃、この犬には随分お世話になったらしい。
 埼玉に引っ越して驚いたのは「野良犬」という生き物の存在。誰に飼われているわけでなく、辺りを歩き回り食べ物を求めてさまよう。時には子どもに噛み付くこともある。野犬狩りも行われていたが、まだまだ野良犬はたくさんいた。 もちろん狂犬病の予防接種も行われおらず、かなり怖い存在だった。
 そして私が大好きだった「ポチ」は野良犬の「ボス」と名づけられて恐れられていた大型犬にかみ殺されてしまった。引っ越してまだ数ヶ月のことだった。悲しかった。
 その後も私の家ではスピッツ系の「リリー」そしてその息子の「チロ」を飼っていたのだが、「チロ」は愛嬌があって毛がふさふさで好きだったが、「リリー」は癇が強いというか、神経質で好きになれなかった。
 まだこの頃は犬に「ドッグフード」なんてものを与えるのは金持ちだけだったから、フェラリアの予防接種とかもしていなかった。結局二匹ともこの病気で亡くしてしまったのだが。

 私はもう犬を飼うという気にはなれない。その後も実家では屋内犬を飼っていたのだが、私はもう犬の臭いと、世話をろくにしないでただいじくってかわいがる無責任な飼い主の姿に嫌気が差しているから。私が生活にゆとりが持てるようになったら(そんな日が来るかどうかわからないが)また考えてみようと思う。

 

疲労・脱力・無気力

自分にとって一つの時期が終った。過去の自分の時期を改めて区切りなおして整理してみたくなった。

幼年期 幡ヶ谷の貸家で一家四人+犬一匹で暮らしていた頃(3歳まで)この時期が一番幸せの原点だったと思う。

少年期 父母が埼玉の浦和の端に土地を購入して家を建てた。不動産財産を持つことになったこと、腹違いの姉たちの母親が亡くなったことによって、姉たちの引取りをめぐって父母はケンカ、家の設計も二転三転した模様。
結局腹違いの姉たちと私の実母と兄とはなかなか和解できないまま私は勝手に居場所を無くしてアナーキーな生活になっていく。

青年期 中学の終わりごろから高校にかけて、週末には兄が必ず一升瓶を買ってきて私と酒を飲んでいた最初は当たり障りのない話から、楽しく盛り上がり、ある一点を超えると大喧嘩になってブラックアウトというパターンだった。

18で家を出て、大学へ。でももう酒につかまっていた。何をしても結局酒で台無しにしてきた。酒でうまく行ったこともあったが、酒で壊した。25で私はすべてをなくしていた。

27から今までが今までの人生で一番楽しいけれども苦しみも抱え、人間らしい時期だったかな。

幼年期から25までの20年、27から47までの20年、次の20年がどんな時間になるのか・・・。

けど、今はとにかく疲れて何もしたくない。できれば半年くらい入院してリハビリしたいな。

2008年11月13日木曜日

退職勧告と退職願

 今日職場で私の問題についての話し合いがもたれた。自己破産という言葉で職場は随分混乱したようだ。職場の預金が差し押さえられるのではないかと真剣に悩み、焦り、迷走したもよう。私のほうに実情を聞くという手続きはまったくないまま「迷惑ばっかりかけて」という罵声が11日に浴びせられた。どうして実情や事態の進行状況を尋ねてこないのか私には不思議だったのだが、やはりいわゆる不十分な情報で実情を確認する余裕も持てていなかったのだろうと思う。
 職場は慌てて預金の名義を変更する手続きを行うため相当苦労した模様。まぁ職場の方も私の手を煩わせることなく解決したかったようだからそれは仕方ない。職場の処置がどうのこうの言うほど私は偉くないし、自分のこともろくろく対処できないのだから言う資格もない。
 話し合いの中でこの問題の経過についての経緯についての誤解は解決。そして私には最終的に「退職勧告」が出された。たぶんそう来るだろうと思っていたので私も「退職願」を用意していた。理由はとても整理されていたし、私の仕事量の重さについても言及されていたので、私としても納得できるものだった。ここで闘っても周囲を巻き込み子どもたちを巻き込むことになるだけになるから、闘うことを放棄した。私が素直に退職することでいろんなことが丸く収まっていくのだから。
 多分、この決断は、今の私にできる「最善」の決断だったと思う。「ロープの端まで来たら手放せ」今がそのときだ。

 気持ち的にはホッとした気持ち、重いコートを脱いで軽くなったような気持ち、けれども大きなものを手放した喪失感などいろんなものがない交ぜになっている。落ち着くまでにはまた数ヶ月かかるだろうと思う。借金の問題もあるし・・・。

 でも、残りの借金の問題を解決すれば随分自分を楽にすることができると思う。
 今日一日24時間 12stepのプログラムを。
 神様、私にあなたの意志を行っていく強さ、勇気をお与えください。

2008年11月6日木曜日

借金との取り組み

 簡単に「自己破産」なんて決めてどうなるもんでもない。まずは自分で支払えない状態になってから、ローン会社に事情を説明して、なんとか返済の負担を軽くしていけるようお願いする。そういう努力をしているうちに、いろんなことがわかるようになってきた。
 今まで滞りなく返済してきた実績自体が「信用」というものの証として認めてもらえること。自分の方から正直に説明することで相手に好感を持ってもらえること。なるほど、世間というものはそれほど酷いものではないものなのだ・・・と初めて思った。
 借金で借金を返して行って結局は雪だるまになってにっちもさっちも行かなくなるのは、きちんと正面から向き合おうとしないからなんだな。「恐れ」というものは向き合って解決の方向を探っていく努力をしなければどんどん大きくなるんだ。
 自分でちょっとだけ大人になれたような気分に浸っているここ数日です。