2008年8月24日日曜日

続きその2(試練と苦しみ)

 私は断酒を開始してから実に充実した生活へと変化していた。2004年の5月には次男も生まれ、夫婦の関係もすばらしく改善され、仕事も順調だった。自助Gへの参加も安定していたが、妻からはもう少し回数を減らせないかと求められていた。自分としてはこのプログラムからもらった新しい生活を大切にしたいという気持ちと、妻にこれまで飲酒で迷惑をかけてきたことへの埋め合わせとで悩みを抱きつつミーティングへの参加回数を減らしていっていた。

 そんな2005年の10月、実家の母から職場に連絡が入った。「兄が倒れて意識不明になった、救急車で病院に運んだ」というものだった。とるものもとりあえず病院に向かった。
 兄は手術中だった。母の話では朝、仕事に行こうと準備しているときに倒れたとのこと。父の脳梗塞を経験しているので動かさないですぐに救急車を呼んだとのこと。
 手術が終わり兄はICUに運ばれた。医師から説明を受けた。「血圧が200を超えていて、高脂血症で糖尿病で、通風もあって、それで酒を飲んでいたんだから倒れるのが当たり前でしょう。一体どういう生活管理をしていいたんでしょうかねぇ。脳の右側に出血があり、とりあえずできることはやりました。でも意識が戻るかどうかはわかりません」とのこと。
 「そんなに血圧が高かったの?」と尋ねると「高血圧は前からだったもの、父親だって高血圧だったし、それに脂っこいものが好きだったからねぇ・・・」「そういう問題じゃなくて、それをなんでほっといたのってことなんだけど」「だって私が言ったって聞きやしないもの」「だけど医者に行くようには言わなかったの?」「だって自分の体でしょう、自分でどうするかは自分で決めるでしょう、いい大人なんだから」。

 母はいつもこれだ。無理やりにでも病院に行かせるようなことはしない。ただ本人に任せて結果自分が困るということが分かっていない。

 兄は某大手ハンバーガーチェーン店に就職して店長までしていたのだが、1996年ごろ「仕事がきつい」と言って退職し、またもや母の紹介で中華の冷凍食品会社に転職、営業を担当して母の援助もあってかなり羽振りがよくなっていた。この会社の社長と母が同級生だったというコネだったようだが。
 この仕事には5年ほど就いていたようだ。一時は年収が700万くらいになって、本人も相当プライドを満足させたようだ。そして1997年に父が建てた家を壊して3000万ほどかけて家を新築した。「兄らしい家」と言おうか、ドアがやたらとでかく、間取りもでかく、二人で(兄が結婚したとしても)暮らすには妙に空間が多い家だった。自慢の家だったので私も新築祝いに呼ばれたが、私は行かなかった。1998年ごろに初めて行ったのだが、広々とした自分の書斎、ウォーキングクローゼット(なんで必要なんだ?)など自慢していた。「こんな家に住みたいだろう、でもお前は住まわせてやらないよ」と言われたが、私には「私の家」があるから「別に、住みたいとは思わないよ。ここは兄貴の家だろ」と言っていた。実際うらやましいとも思わなかった。兄は兄、私は私だ。2002年に私が断酒をはじめてから訪ねたとき、状況は変わっていた。
 兄は高収入の就職先を解雇されていた。2000年ごろのことだったらしい。母の話で聞いただけだったからよくは分からない。言うことが聞くたびに微妙に変化しているから。
 最初は「兄ははめられたのだ」と言っていた。「兄の働いている店でトラブルが起きて、その責任を兄一人にかぶせられたのだ」と。次には「先代の社長(母の同級生)が亡くなって、役員の入れ替わりのとばっちりで解雇になった」と。いずれにしても「兄には責任がなく、他者に陥れられた」という基調は変わらない。だが私としては、兄が多くの収入を得ていた裏には何か問題があったのだろうと思っている。入社して1・2年で年収700万なんて普通はありえない。先代の社長にひいきにされていた分他の社員からは恨みを買っていたのだろうということは容易に推測できる。

 いずれにしても解雇されたという事実、そして兄は警備会社のパート社員になった。年収は450万の減収。普通はこういう事態になれば住宅ローンの返済について相談に行ったり対策を立てるものだ。しかし兄はやていなかった。毎月7万とボーナス時に20万の支払い。年収が大幅に減って払えるわけがない。ましてボーナスもなくなったのに・・・。

 おそらく兄はこの解雇の経過の中で何か大きな精神的ダメージを受けていたのだろうと思う。
 
 奇妙なのはもうひとつ。兄は家を建てた翌年に結婚をしている。子どもができて「できちゃった結婚」というやつなのだが、出産が終わると相手は家を出て行った。3ヶ月ほどの形式的な結婚。「結婚した」という知らせを受けて祝いをしにいったが嫁さんには会っていない。嫁さんに会ったのは一回あっただけだった。そして3ヵ月後に「離婚した」という知らせ。あまりの速さにびっくりした。そして子どもの養育費を支払うということで調停したらしい。

 さて、こういう流れの後、兄は2005年に倒れた。3ヶ月間意識不明が続いた。その間、母に頼まれて私は兄の書斎や荷物を全部ひっくり返して「生命保険」「住宅ローン」「その他の借金・請求書」「銀行の通帳」などなどいろいろな書類を調べ、兄の部屋の整理もした。
 出てきたものは、解約された生命保険証書・焦げ付きがある住宅ローンの請求書・カードローンの総額80万・固定資産税の滞納100万・残高がマイナスの預金通帳だった。机の引き出しからは兄が昔の友人に金を無心したらしい手紙の返信もあった。「前回の貸し金の返済がまだ終わってないのにまた貸してくれと言われても無理ってものだ」という内容。携帯電話にはスナックの女性らしき人何人もから、「またきてねぇ、待ってるよ~ん」「今度ドライブつれてってね~」なんてメールがいっぱい。そして兄の送信も調子のいい言葉ばかり。そして突然携帯に電話がかかってきてうっかり出たら、「あのぉあんたさぁキートンさん?」「いえ、兄は脳内出血で倒れまして、私は弟です」「弟さん?でもいいか、とにかくさぁ、つけ払ってよぉ、いいかげんたまってるんだからさぁ」「いや兄は無理ですから」「あ、そう」どうやら兄は収入が減ってからもそういう現実を直視できないままあちこちのスナックで飲み歩いていたようだ。
 兄の職場にも連絡を取って担当者に会った。「パートですからねぇ、退職金はないんです。これはお見舞いです」と1万円だけ。「お兄さん大変でしたねぇ、でも給料の前借もあるんですよ、でもこういうことですからそれは請求しませんから」「はぁ、すみませんでした」給与明細を調べた。手取りは多いときで17万、少ないときは13万、そのうえ確かに前借が毎月4・5万と記載されていた。

 兄の手術代、入院費用が約50万円。母が支払えない分は私が職場の父母から個人的に借金をして支払った。その後も急性期が過ぎたらその病院からは追い出され、リハビリ病院へ。また3ヶ月50万。
そしてもう一回また別のリハビリ病院へ3ヶ月50万。母の生活費は父の軍人恩給の遺族年金、そして母のパート収入で総額20万に満たない。不足分は借金で補うしかなかった。
 そして実家(兄の家)を処分してローンを片付けなくてはならない。それには荷物を全部片付けて母の引越し先を探し、とりあえず住処をみつけること。アパートは知り合いが見つけてくれた。家賃が7万。未納のローンの返済も7万、兄の入院費用と定期的に行くための交通費、兄の家を売るにしても買い手がつかなければ兄の生活保護も申請できない。兄の家の片づけをすべて終えて売れる状態になったのが2005年末。2006年の3月4月という家が売れやすい時期に期待したが、車の出入りが不便という点がネックで決まらず。結局売却できたのは2007年末。
 兄は2006年の12月から入院先から母のアパートに移った。意識はまだはっきりしないこともあり、特に過去のことについては「覚えてない」といい続ける。本当に覚えていないのか、忘れたいからそう言っているのかはわからない。ただのんびりとしている。リハビリは痛いから行きたくないなどと平気で言っている。
 兄の生活保護が支給されるようになったのが2008年2月から。それまで一体いくらの借金ができたのかということも本人は知らん顔。家の売却益は全部ローンの返済と固定資産税の支払いで消えた。
借金だけは残っている。

 2005年までスムーズに進んでいた私のソブラエティ生活はこの兄の脳内出血で大きく揺さぶられた。忙しく処分のために動いている間にはあまり感じなかったのだが、とりあえず一段落ついた2006年度末にどっと疲れが出た。自分では仕事での疲れだと思っていたが、本当はこの実家を襲ったトラブルへの対応で疲れたのが大きかったのだろう。
 そして2007年にはひどいストレスが身体症状にもなって表れてしまった。借金を重ねているうちに自分もおかしくなって買い物依存になったりして被害を膨らませてしまっていたことで自己嫌悪や実家の家族への嫌悪感、そしてそういう嫌悪感を感じる自分を許せない自分の感情的混乱。

 自分の中では2006年の秋にはひどい疲労感を訴えていた。そして2007年にはまた飲んでいたときに支配されていた自殺願望も現れてきてしまっていた。どこかに消えてしまいたいという思いでいっぱいになり、もう自分の精神状態をまともに保つどころではなかった。
 理性的には実家の問題は自分がいくらがんばっても解決できないのだから、きっちりとできることとできないことを見極めて線引きすればいいのだと分かってはいるのだが、感情の中では処理ができなくなっていた。

 私にはどうしても休職が必要だったんだと理解した。そしてこの休職はとても大きかった。自分の心の落ち着きを取り戻すという上でも、ソブライティーを取り戻すという意味でも。

 今、私にできることは職場復帰に向けて、自分の問題をきちんと明らかにすること。そして実家の問題は棚上げにして自分のことに集中することだと思う。

 時間はかかったが、有意義だった4ヶ月だ。

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