2008年8月23日土曜日

続きその1

 私は大学にストレートで合格した(第一志望ではなかったが)のを機会に家を出た。出たくてたまらない家だったから出ることができて本当にうれしかった。
 大学の入学金は親が出してくれたが学費は自分で奨学金や仕事をしながら稼いで支払っていた。そして、自分の考え方や行動の仕方が異常であるということに家を出て初めて直面した。

 まず一つは感情の出し方がわからないということ。小学校高学年から高校まで、自分の感情を表に出すということを封じていたので(出すと兄や母から責められた経験の蓄積なのか?)感情に蓋をするということが通常の状態で感情を表に出すには酒の力を借りなければできなくなっていた。
 だから表面上は常に穏やかさを装っていたが、内面ではいろんなことで傷ついていたし、そういう弱さを嫌っていた。一方で酒の力を借りると感情の蓋が全開になり、激発して暴力は振るわないが泣いたり叫んだり走り出したりしていた。

 次に「働いて金を稼ぐ」ということには非常に勤勉だった。一年目は夜10時から朝7時までのファミレスでのアルバイトで月15万稼いでいた。だがその金の使い方はわかっていなかった。欲しいものを買うためにためるということもできないし、必要最小限のお金を残して後は全部無駄遣いをしていた。
 
 このアルバイトを通して朝酒を飲んで帰るようになった。昼夜逆転での朝酒のみでは身体を壊す。
 心配してくれた先輩がもっと楽で効率的な仕事を紹介してくれて、そこで働き始めた。社会保険も完備されていたので、胸腺腫になったときも休職手当てで保険十割給付という当時の制度で気楽な入院生活ができた。

 勉強については好き嫌いが露骨で、「単位を取るのが難しい」といわれている講義では毎回出席して特Aの成績をもらうのだが、「出席さえしていれば取れる」という単位は落としている。このあたりは天邪鬼で「楽に取れる単位には価値がない」という考え方をしていた。

 小学校高学年から高校卒業まで、それぞれの学校の図書室の本は図鑑や辞典、理化学系のもの意外はほとんど読破していた。特に高校の時には一通り西洋思想、東洋思想の本を読みつくした。カントヘーゲル、ニーチェ、キェルケゴール、ショーペンハウエル、陽明学、墨子、韓非子、史記、十八史略・・・。こういう素地があったから大学の講義でもつまらない講義は出なかった。
 こういう考え方だから結局大学を卒業することはできなかった。

 このころの自分は、自分の力、能力を充分過信していた。かんたんに単位が取れる講義を選択して確実に単位を取っていくほかの学生を内心バカにしていたのだが、彼らにしてみれば私の方がはるかに大バカだと思っていたことだろう。

 さて、この大学に入って自分で自由になった気分でえらそうな議論を私がしている間に、実家はどうだったのだろう。父は二回目の脳梗塞で倒れ、半身不随が酷くなり、その介助は母と兄がやっていた。兄は某大手ハンバーガーチェーンに母の知人の紹介で就職し店長をしていたが、恐らく兄にしてみれば脳梗塞をしても酒を飲んで好き勝手に過ごしていた父の姿は腹立たしいものだったろうと思う。
 二回目の時はさすがにあきれていたのだろう。

 三回目の脳梗塞で倒れ、入院したときには母も兄も「あれだけ自分がやりたい放題してきたんだからもう仕方ない」と言っていたし(痛風が痛いといろいろ言うくせにトンカツを食べていたなどどうにも救いようの無い状態だったようだ)
 そして父の葬儀で私は泣いた。私は父が好きだったし父の人生を私なりに理解していたつもりだったのだが、母や兄の気持ちは違っていた。「なんであんな奴のために泣くんだ、バカ」と兄に言われた。「だって親父じゃないか」と言うと「あいつのためにどれだけ俺やお袋が泣かされたかお前にはわからないんだ」といわれた。確かにそうかもしれない。毎日一緒に暮らしていた母や兄にとっては大変なことがたくさんあったのだろう。それに腹違いの姉たちと同居しなければならなくなったのも元々は父の無責任さに原因がある。そしてそのことで最も苦しみや怒りや不愉快な思いを抱いたのは母と兄だったのだろう。18で家を出て、すき放題に一人で生活をしていた私は彼らにしてみれば一番「お気楽な極楽とんぼ」だと思っていたのかもしれない。確かにそれも一面正しい。しかし私に「家」に対する帰属意識を無くさせてきたのも母と兄だったということも事実だ。私が実家に帰るたびに兄は私と一緒に酒を飲みながら「お前はなんにもわかっちゃいない」といい続け、最後には「お前の顔なんか見たくないからけえれ」と捨て台詞をはいたのも兄だった。

 父の死で私はもう実家に帰る理由がなくなった。そこには何もなかった。自分の居場所も、ほっとできる空間も。いろんなものがとっちらかった荒れ果てた家で私は嫌悪感しか感じることができなかった。

 こうして私は実家との関係を最小限にとどめるようになった。

 私は学生時代にある女性と同棲したりもしたが、やはり私の酒で破綻した。だが、彼女との生活費を稼ぐために始めた学習塾のアルバイトで、私は自分のこれまでまったく知らなかった一面を見出した。
 高校生までは私は絶対に子どもを対象とする仕事にはつきたくないと思っていた。なんでそこにこだわったのかはわからないが、「子どもを対象にした仕事」というものはあまりに責任が重く絶対に自分には向いていないしできないと信じていた。ところが学習塾の仕事で中学生や小学生に関わってみると、私自身が彼らとのコミュニケーションの中で癒され、彼らを励ますことで自分に力がもらえるということを感じていた。特に荒れた中学生たちと関わると彼らの純粋な思いやそれを阻んでいる現実、そして彼らに結果としてハンデとなっている学力不足、本当に生きる力としての学力というものを身につけていくための援助をしていくということが自分にはとても大きな喜びや勇気を与えてくれたのだ。
 だが、まだこのころは自分の思考方法や行動パターンの問題には薄々は感じつつも自覚しようという努力をするところまでは至らなかった。たぶん、「生きる力」というものの本質がまだわかっていなかったのだと思う。
 そしてこの職場は、私にとっては同棲していた女性との関係でのこじれや矛盾を浮き彫りにして別れるという結果をもたらし、その痛手から私は酒に沈殿し、解雇という結果をもたらした。
 けれどもそういう痛手と共に、そこでは今の妻との出会いというものも得た。

 そして妻となる人の勧めで現在の職場へと移って行った。

 新しい職場は新鮮だった。そこには「学力をつけさせなければならない」という枠も無く、自分なりに考えて工夫して子どもたちと一緒に生活のありようを作っていくという自由があった。そして妻との結婚を職場の父母たちがみんなで祝福してくれた。
 私と妻は私が酒を飲みすぎるという問題はあったが、随分二人で楽しい時間を共にした。

 その後この職場で現在まで20年以上働いているのだが、何度も職場の危機的な状況はあった。けれども多くの父母の協力もあってその度に乗り越えてくることができた。
 自分の酒は2002年9月2日まで止まらなかったが、職場で仕事中に酒に手を出したことはないし、酒での失敗も自分ではできるかぎりしないように努力した。いわゆる「つらすぎるくらいつらい努力」をし続けたというわけだ。なぜ2002年に酒を止める決意ができたのか、それは職場の施設の移転問題が発生し、居座るか移転するか、その財源は・・・という問題に直面して5月から8月までほとんど毎日仕事が終ってから、夜8時を過ぎると一人で記憶が途切れるまでバーボンをストレートで飲み続けて体が完全にギブアップをしたからとしか言いようが無い。9月3日に精神科に受診して(不眠・抑鬱症状が理由)「アルコール依存症」と宣告され、酒を止めて生きるか、酒にしがみついてぼろきれのように死ぬか」という選択を迫られ、私は生きる方を選んだということだ。

 結婚生活の20年の間にもいろいろあった。生まれてきた長男が一歳の誕生日直前に点灯てんかんを発症し、重度の知的障害児となったこと。それによって妻が退職し、長男の入院に付き添い実質妻の実家で孤独になったこと。けれどもこういうことはすべていいわけになる。それに妻の名誉にも関わることだからすべてを書くことはできない。

 だが酒を止めてから私には信じられない喜びがもたらされたことは事実だ。酒を止めることは意外と簡単だが、それを続けることはとても難しい。でも自助Gにつながって12ステップのプログラムにつながって自分の内面が変化してきたことは事実だ。まさにミラクルとしか言いようが無い。それほどこのプログラムには効果がある。

 だが、2005年10月に自分を試される試練が勃発した。

 この続きはまた明日。
 

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