2008年9月25日木曜日

妻への感謝2

 長男が難治てんかんで発作がおさまらないまま4歳で入院生活を終えた。そして自宅での生活となったが、妻は保育園への受け入れを求めて行政に何度も足を運んでいった。理由は長男のような重い障害を持つ子どもたちの母親も働くことができるような学校が終ってからの放課後の受け入れ施設作りを作る運動を始めていきたかったから。そして長男が6歳の時に実現した。最初は古い医院の跡地で部屋も狭く暗かったが、そこで障害を持つ子どもたちの受け入れをしていった。長男も養護学校小学部の後の放課後の時間をそこで過ごすようになった。

 妻は忙しかった。施設の運営と障害の重い長男の育児とで毎日走り回っていた。
 私は妻がいなくなった後の事業を引き受け、非常に苦しい運営だったが、子どもたちとのかかわりが楽しくて続けてこられた。だが私は飲み続けていた。もちろん朝酒はやらない、昼間も飲まない、けれども夜8時過ぎ、長男が眠ると(妻も一緒に眠る)私の全開の時間だった。ワープロでのniftyサーブでのパソコン通信やら読書をしながら飲んでいた。

 それでもこの頃はまだそれほど深酒を続けるというほどでもなく、休肝日も設けていられた。

 私がおかしくなっていったのはやはり学童保育の運動にのめりこんでいった頃だと思う。保育園父母との関わり、事務所での夜遅くまでのチラシ作り、その後の痛飲の日々。行政というものの理不尽さを怒りつつ、自分を自分で破壊して行った。

 妻が偉いのは、そういう私をほうっておくことができたこと。もちろんかまっている時間もなかったのだろうが、自分は自分、長男と自分の生活は決して乱さなかったし、私が乱せばそれを拒否した。
 長男の入学式も私は二日酔いだった。私は子どもの行事に出ることが億劫でわかっていて深酒をしていた。二日酔いなら許されるという浅はかな考えだった。
 
 妻はそういう私に何度か素面の時を選んではっきりと言っていた。翌日の予定に影響するような飲み方はしないで。

 私にとって、酒を飲むということは意識がなくなるほどの痛飲を意味していたから、ほどほどに飲むなんてことがわからなかった。

 私は事業関係の運動を続けるなかで、浮気もした。妻は長男を抱いて私とその女性が飲んでいるところにやってきて、「この子をどう考えているの、このこの将来に責任をもたないでいいの?」と私の心にわずかながら残っている良心に訴え、私は自分の卑劣さを認めた。

 しかし苦しかった。仕事でのパートナーも長続きしなかった。

 そして事業所の移転という問題が持ち上がった。私はもう自分ではどうすることもできなくなっていた。毎晩ブラックアウトするまで飲み続け、だけど朝酒は飲まない、昼間も飲まないという苦しい状態を4ヶ月も続けていた。8月の終わりの打ち上げで、私はいつもは一次会で帰る飲み会に二次会まで出てしまった。そしてそこで帰ろうとして足がもつれ、送っていってもらった。身体が異常に重かった。肝臓の辺りがパンパンに張っていた。

 その頃はもう家庭内別居だった。妻と長男は別室ですやすやと眠り、私は階段を挟んだ部屋で酒を身体に注入していた。

 9月3日、妻は私を病院に連れて行ってくれた。自分も目にヘルペスが出て酷く痛むというのに。最初は内科に行った。そこでは「酒は控えめにね」といわれただけだったからホッとした。しかし次に回った精神神経科で、「アルコール依存症です」「断酒するか、ボロボロになって死ぬかしかありません、どっちにしますか?」と言われてしまった。目の前は真っ暗だった。もう酒が飲めない??俺の苦しみを癒してくれる酒、何もかもかすんだもやの中に隠してくれる酒を・・・そんなのできるわけない!!追撃がきた「奥さん、こんな男はダメですよ、酒止める気なんて全然なさそうですから、もう離婚しなさい、関わるだけ大変になりますよ。ボロボロになって死んでいくんですよ」ぐぅーーーーーーーーーーーーーー!!
辛い数分間だった。身体がボロボロに重かった。これが楽になるのかもしれない、妻とやり直せるのかもしれない、長男を育てていくことができるのか・・・・・生きたい・・・・と思った。
 このとき私の断酒が始まった。
 妻は断酒で苦しむ私を支えてくれた。暖かく。妻の身体は、心はこんなに温かかったのか、それを全く忘れていた自分・・・失ってきた時間は戻っては来ない、でもまだ俺には時間がある。

 それから二ヶ月はとにかく自力の断酒だった。飲みたくなる心を怒りや叫びでごまかして、妻を抱きしめて止めてきた。だが自力だけでは限界があるということを医師からも言われていたので自助Gに行くことにした。職場の近く、家の近くで探し、会場に行くと、そこにはアルコール依存症者の仲間がたくさんいた。最初はわけもわからなく参加していたが、次第にいろんなことがわかってきた。
 アルコール依存症は肉体的にも病気であること。そして精神的にというよりも霊的に病んでいる病だということ。自分勝手で無責任で、移り気で飽きっぽく、何かに夢中になるとそればっかりこだわる性質を持った人間の集まりだということ。

 妻にも話をするが妻には理解しがたいところもたくさんある。とにかく酒を飲まないアルコール依存症者というのは奇妙な生き物だと思う。自分もそうなんだが。悪くなると酷い。あっという間に考え方が元に戻る。だが霊的なプログラムを実践していると結構有能で使える人になる。

 何とかとはさみも・・・という感じだ。

 とにかく妻は2002年の9月に私が断酒を始めてから私とのコミュニケーションをよくとってくれるようになった。そして2004年に次男を産んでくれた。私はワーカホリックになったり、買い物依存になったり借金魔人になったりして去年の11月に一口バーボンを飲んでしまった。2005年の秋からAAプログラムからそれてしまっていたからなのだが・・・。

 けれども妻は今も私を信じてくれている。私は今休職しているけれども、私なりの回復の道へと努力しているということを認めてくれている。

 私は妻を愛している。そして重い障害を持つ長男とかわいい小僧の次男を。私が自分を大切にしたいのは自分を取り巻く人々がみんな素晴らしい人たちだからなんだと信じていられるから。

 妻にありがとう、長男にありがとう、次男にありがとう、そしてこの世界にありがとう。

妻への感謝

 9月23日は私たちの20年目の結婚記念日だった。私たちは式をあげる金もない貧乏人だったから、籍を入れればいいや、と思っていたのだが、職場の父母たちが「そんなんじゃダメ」と言って、当時の職場があった団地の集会室で式と披露宴を行うことになった。
 父母の職業は様々で、インテリアショップに勤めているお母さんがどこからか赤いじゅうたんを持ってきた。デザイナーのお父さんが白いタキシードを、そして保育士だったお母さんたちは壁面を飾ってくれた。もちろん子どもたちも同席。普段ぼろっちいかっこをして保育をしている二人がタキシードとウェディングドレスで現れたのには度肝を抜かれたらしい。女の子たちは妻の周りで「きれ~い」とはしゃぎまくり、男の子たちは口では化粧をしている妻に(仕事中は素ッピン)「気持ちわり~」と悪態をつきつつも照れていた。私にも「にあわね~」といっていたがみんなで歌を歌い、私たちは誓いの言葉を述べ、誓いのキスをした。一人のお母さんが記入済みの婚姻届をすぐ近くの区役所に届け、報告してどよめきの中で式が終わり、披露宴になった。私の母は出席してくれたが兄は出席しなかった。

 二人の新婚旅行は国内の山めぐり。でも折からの不安定なお天気で私は途中で体調を崩してしまった。新居も最初の数年は二人だけでマンションを借りて生活した。
 ドラクエを深夜までやって「結婚するってこういうことなの?」と怒りを爆発させられたこともあったし、部屋中粉だらけにして二人でピザを作ったりもした。

 私は少し当惑していた気持ちもあった。なんだか人生のレールが引かれてしまったような違和感みたいなものを感じていた。
 けれど妻はしっかりもので、私を上手にリードして生活のあり方を教えてくれた。でも私はその頃から飲んだくれで、たくさん迷惑をかけた。トイレと間違えて玄関で小便をしたり、どうしようもない甘えんぼでもあった。

 結婚して2年、マンションの契約更新料を支払うのがバカらしいから、妻の両親の家を二世帯住宅に建て直して同居することにした。

 妻は狭い敷地でいかに効率的で収納力のある家にするか設計に夢中になった。私はまだなんとなく妻の両親との同居に乗り気になれなかったのだが、妻の方針に逆らう気持ちにはならなかった。妻の判断は大抵正しい。家賃を払い続けるよりローンを払い続ける方が合理的だということは理性的にも理解できていたからだ。

 二世帯住宅が完成して、同居が始まり、妻が身ごもった。職場で始めての産休を実現するために社会保険への加入を求め認められた。そしてラマーズ法での立ち会い出産を希望したので二人で親学級に通い、呼吸法の練習もしていた。
 だが、どうも私の酒は改善されなかった。つい飲みすぎる。陣痛が来た時も私は飲みすぎていて事態がよくわからなかった。病院までタクシーで1時間の道を酒臭い息で「ひっひっふ~」と一緒にやっていた。いよいよ出産。妻の頭のところにいて声をかけ呼吸法をやるのだが、足元にコンセントがあって、私は二回コンセントを蹴飛ばして抜いてしまった。足元が怪しかったのだ。それで「退場」
 長男が生まれた。このとき誰がその後の長男を襲う病気を予想していただろうか?生まれたときは普通の赤ちゃんだった。私は躊躇無く大好きな山の名前をつけた。

 長男が6ヶ月検診で発達の遅れを指摘され、そして一歳のお誕生の一週間前にてんかん発作が始まった。「点灯てんかん」乳幼児のてんかんでは予後不良ケースが多い悪質なてんかん発作の一つだった。母子分離で入院させられ、夫婦で泣いた。医師は「この子はもう笑顔を取り戻すことはないかもしれません」と宣告してきた。
 妻はなんとしても長男のてんかん発作を治すということを決意して母子で入院ACTHという副腎皮質ホルモン分泌促進剤の投与では長男は頭痛がひどいのか全く眠らなくなった。一週間で数時間の睡眠。抱っこして暗い夜の病院の階段を上り下りする時だけうとうとする。ベッドに下ろすと起きて泣き出す。4人部屋(赤ちゃん四人+付き添い)で劣悪な環境だった。冬だったのでヒーターのパイプからわけのわからない「かん・こん・かん・こん」と大きな音がして神経を尖らせていた。一月半の入院で一旦発作はおさまったが、つかのま、また再発した。今度は下調べを十分にして静岡の国立専門病院に入院することにした。妻の退職金などすずめの涙。発症前に長男に子ども保険をかけていたので入院費用に困ることはなかったが、一ヶ月のうち半月の入院、半月の帰宅という不規則な生活の中、私は家の中での居場所が弱くなって酒が増えていった。
 妻と子どもが静岡から帰ってくるという日にも私は二日酔いで迎えにもいかなかった。この頃から私は自分のことばかりを考えるようになりがちになっていた。長男のことばかりで精一杯の妻、それなのに自分のこともかまって欲しかった。自分は妻を支えるのではなく、妻に甘えたいという気分だった。「長男のことばかりで俺はどうでもいいのか」・・・今から思うと恥ずかしい。自分は一家を背負って立つ「父親」でもなければ疲れきった妻をいたわり支える「夫」でもなかった。ただ長男が妻を独り占めにしていることにふてくされている図体だけでかいただの「餓鬼」でしかなかった。

 続きは明日

2008年9月24日水曜日

アルコール依存症という病気

 「アルコール依存症」という病名から連想されるのは、朝から晩まで酒を飲み続け、借金をして、家族を傷つけ、何もかもこわし、最後には自分の身体も壊して死んでいくというもの。実際そうなんだけどね。私の飲み方は案外違っていた。朝酒は飲まなかった。昼間も、仕事中も酒は飲まなかった。けれども夜8時を過ぎるとウィスキーやウォッカ、ラム、テキーラなど強い酒ををストレートでぐいぐい飲んでブラックアウト(気絶)するまで飲んでいた。つまり私にとって酒はコミュニケーションを円滑にするためのものではなく、自分を眠らせるための薬物だった。
 ある医療関係者が言っていた。「アルコールが、もしも20世紀に発見されていたなら、ヘロインやモルヒネのようにみなされ、非合法的な医療関係者にしか使用が認められない化学物質としてみなされていただろう」と。だが、アルコールは人間が文化を作り始めた頃から身近なところにある手軽な飲み物として存在している。そして多数者はこれを上手に使ってコミュニケーションを円滑にする「道具」としている。「アルコール依存症」になる人は、まず体質的にアルコールに強く反応する。アルコールによる「酔い」の感覚の快感が他者に比べて強い。そしていろんな事情(生育歴、体験的なトラウマ、性格的な弱さ)などから現実のすさまじさを直視しきれない。実際は多数の人が現実のすさまじさの中で自分の居場所を作り、自分の能力と折り合う生活を見出していく能力を持っているのに、この病気になる人は様々な弱さが絡み合って、すさまじさの方にばかり目が行ってしまって、自分の居場所を作ることができない(作りきれない)し、自分の能力を過大評価するか過小評価してしまい現実との折り合いがなかなかできない。そのため、酒の酔いの妄想の中に自分を求め、時には酔いに任せて暴力的になり、あるいは引きこもってしまう。どちらに進んでも社会からは孤立を深めていく。特に自分の身近な人に強い共感を求めるあまり(依存)その共感が得られないとなると攻撃的になったり自己否定感を強く感じてしまったりする。

 回復には「断酒」すること。これがスタートライン。そして断酒したまま自分が壊してきたもの、家庭・仕事・金銭感覚・社会との折り合いを再建していくことに取り組んでいく。普通の人が普通に生きるという日々の生活が、我々にとっては非常に多くの苦痛や退屈を感じさせる。普通の人とはビジネスライクな付き合いはできても、それ以上の感情的な共感というものまで感じるのはなかなか難しい。そこで自助グループが必要になる。同じ病気で同じ気質のもの同士、同じ生きづらさを抱えているもの同士で自分の生きづらさを吐き出しあって自分を軽くしていく。

 AAの12ステップはきわめて有効なもの。自分というわけのわからないものに思い煩っているから生きづらさを増していってしまう。だから自分を「神」に預けてしまい、自分を「道具」にする。それには自分の過去どうであったか、何が起きて、今どうなっているか、を明らかにして、自分を生活する道具として、今苦しんでいるアルコール依存症者の手助けをすることができるという一点において価値を見出していく。仕事は「生活していく糧を得るための道具」でありそれ以上でもそれ以下でもない。家族は自分に与えられた財産。そして自分は単に神に与えられた役割りを果たすためにこの世に送り出されてきた一人の人間でしかない。思い悩むのはやめて、実務的に生き、喜びながら生きればそれでいい。

 ただ、未だにこの病気は多くの誤解を受け、「精神異常者」とみなされ、「汚らわしいもの」扱いされているのも事実。糖尿病の人がインシュリンが手放せないように、心臓病の人がペースメーカーを手放せないように、足が悪い人が杖を手放せないように、私たちは自助グループを手放せない。それだけなんだけどな。

2008年9月18日木曜日

借金と取り組む

 どうしても自分には怯えや恐れが出てきてしまう。これはやはり、事実をきちんと事実として受け止めてその結果に責任を持つという姿勢が弱いからなんだろう。
 3年ほど前まではこれができていたのだが、その後できなくなっていった。目の前の問題から目をそらしてごまかしてきた自分・・・その結果がこの借金という事実として突きつけられている。言い訳したい気持ち、逃げたい気持ち、安易な方向に行きたい気持ち、いろんな気持ちが次々に出てくる。だが、ここで逃げればまた新たな問題を作り出すだけ。だから正面から取り組まないと・・・。

 家計に影響を及ぼさずに自分の力でできる限りのことに取り組む。ここからでないと何も始まらない。「解決はない」になってしまう。解決するためには自分ができることを精一杯やってこそのものだ。

 本当にわかっていない自分だ。

2008年9月15日月曜日

恐れ・不安・・・脅かされているもの

 自分の心の中をのぞく。職場についての総括は大分できてきたと思うのだが、妻に対する借金の問題での総括がしきれていない。
 問題は単純だ。自分がAAに行かなくなったことが一番の原因。しかし、行かなくなった理由の中に妻に対する恨みが多少なりともあるのは事実。妻に「夜のAAを減らしてくれ」と言われたことがきっかけではある。だが、それはどういうことだったのだろう?
 この病気は「忘れる病気」自分自身も多少生活が軌道に乗ると忘れていくし、家族も忘れていく。職場も忘れていく。自分では「忘れてはいけない」と思っていたのに、妻の一言から行くことが少なくなり、疎外感を感じるようになり、行かなくなっていった。
 12ステップのプログラムをもてあそんでいたようなところもある。

 「インスタント回復はない」

 本当にそうだ。足で歩いてつながり続ける。この継続が仲間からの信用につながる。仲間からも信用されないようでは、健常者から信用されるはずもない。

 ここから悪循環スパイラルが始まっていく。

2008年9月12日金曜日

復職に向けた心の状態

 心の状態は、やっぱり落ち着きが十分でない。とにかく手紙は出した。妻の助言をもらって書き直したら施設長から驚かれたほどのものだった。やはり妻の考え方というものは健全なんだ。なんでこんなに健全なんだろう?私が書いたのは確かに自分の側の都合・言い訳ばかりで相手の気持ちを思いやるという心の広さも柔らかさもない。自分としてはとにかく「シンプルに」というつもりで書いたのだが、妻に言わせれば「相手が知りたいことが書いてない」とのこと。
 カチーンときて口げんか、でも妻の言い分が正しいことはわかっているんだが・・・。「この程度のことであんなにイライラするんじゃ、当の相手にあったらもっとイライラして口走っちゃうんじゃない?」と言われた。ごもっとも。正直言って自信はない。
 けれども医師は19日の受診で診断書と復職許可、意見書を書くという。施設長はもうあと数ヶ月やった方がより強くなれるし安全だと言っている。だが、通常は医師の意見が重視されてしまう。どうしたものか・・・。
 それに結局は金の問題・・・月収25万か傷病給付19万か・・6万の違いが大きい。考えようによってはたった6万の違いでしかないのだが。

 この8年間の年間収入を出してみたら昨年でようやく6年前の水準に戻ったばかり。そこでこの休職。痛い。本当に痛い。

 厚生年金、社会保険料の値上げも痛い。

 復職を前にして心が揺れているのである。

2008年9月11日木曜日

埋め合わせ

 理由はともあれ、自分が起こした問題の責任は自分で引き受けなければならない。仕事の上で他の職員に迷惑をかけてしまったこと、借金を作って家計に大きな穴を開けてしまったこと、これらは何を言っても事実として受け入れていかなければ・・・。

 実際のところ昨年の末から今年の春ごろまでに自分は何をやっていたのだろう?仕事ではモチベーションが保てず去年の今頃は蓄膿症と歯周病で倒れてしまったり、その後助成金の書類を書くことで自分の仕事はしているという外見を作っていても内容的には職場の信頼をなくすようなことをしたり、どうしようもない閉塞感の中にいた。「保育」に取り組めなくなって、実務の処理に追われて時間の無駄遣いをして、自分のカラの中に閉じこもって仕事になっていなかった。

 家庭においては自分なりの責任は果たしてはいたのだが、一方で妻に隠れて借金を作り、それが膨らんでいく中で自分でもどうしようもない気分に自分で追い込んでいた。

 昨日の朝も職場への手紙を書くということ一つで、妻に八つ当たりをして、自己嫌悪になった。

 なんで妻はいつも「まとも」なんだ!俺は自分を「フツー」に保つということだけでもすごいエネルギーを要しているのに・・・。

 こんなことで苦しんでいるってことは、同じ病気の人間にしか共感は得られないだろうな。自助Gで吐き出しているとたくさんの共感があふれてうれしくなるよ。壊れている人間の壊れ方なりに生きていかないと・・・。埋め合わせをしながら、生きるということになれていかないとダメなんだな。

2008年9月10日水曜日

自分の弱さを突き詰めれば

 スポンサーにも医師にも指摘されたことだが、自分のもっとも弱いところは責任の境界線が上手に引くことができないこと。健常者は「ここまでは自分の責任」「この先は他人の責任」と明確に線引きをする。仕事や責任ががたくさん覆いかぶさってきた時にも、それを整理して「自分が手を出すのはここまでで後は他人に任せる」ということができるのだが、私はそういうところが下手だしわからなくなることがしばしば。

 今回の休職に至った経緯でも兄との問題で実家との距離がうまく取れず変に責任を背負い込もうとしたり、今の自分ではできないことをやらなくてはならない・・・と思い込んでしまって身動きが取れなくなっていったことが大本。
 仕事での自分の責任範囲が次第に広がっていったことでも、境界線が引けないために何もかも背負い込んで「ねばならない」という意識にとらわれて結局は背負い込むことも投げ出すことも、他者に押し付けることもできなくて自滅した。

 自分と他人との境界線がうまく引けないというのは自己評価の低さと背中合わせの自分の能力への過大評価という両極端な感覚があるからだろう。ここのところで自分の現実の能力をあるがままに見つめて「できることだけに絞り込む」という作業が必要なんだろうな。それをすると「その程度の能力なのか」と思われることを恐れているから背負い込んでしまうんだ。
 
 自分に自信を持っていいのか、どうなのか・・もわからない。本当に淡々と仕事をしている人がうらやましいと感じる。

2008年9月8日月曜日

兄を赦す

 突然訪れた気づきだった。兄もまた悩み苦しんでアルコホーリクになったのだ!という思い。

 突然、今までのすべてを赦したいという気持ちに襲われた。

 神様、彼の苦しみを取り除いてください。そして彼の心に平安が訪れますように。と祈ることが自然にできる気持ちになれた。

 ただ7日のミーティングで自分の心の崩れを仲間の中に卸したあとのことだった。兄のアルコホーリクを赦せない自分は何者なのか、彼の破壊性を感じながら、いろんなものを破壊してきた自分を棚上げしているだけではないか。

 私はたまたま運が良かっただけ、良い妻と重度障害の長男と優れた医師と素敵なAAグループに出会うことができてプログラムにつながることができた。これは私の人格や優秀性によるものではない。私が運が良かっただけだったのだ。兄が私を守る防波堤になっていてくれたから、私はこの程度で12ステップにめぐり合うことができたのだ。
 兄の心の闇は私の闇より深いのだろう。父を最後まで看取り、母のイネイブラに苛まされながらも最後は何とか自分で仕事を見つけて生きようとしてきたが、その時には、もう心も身体も壊されていたのだ。私にできることは、兄のために祈ること、そして12ステッププログラムを届けることだろう。

 自分の心の落ち着きがようやく訪れてきたようだ。

2008年9月6日土曜日

飲酒欲求?

 昨日は病院の通院日。妻も一緒に医師と話をした。私の言い分、妻の言い分、それぞれ聞きながら、結果としては今月末で休職期間を終えるべきでしょう。長引かせればそれだけ良くなるというものでもないですから・・・ということになった。

 家計の管理についてはまた妻ときっちり話し合っていかなければならないことなのだが、自分の問題は自分で自助Gを使いながら解決していくこと。

 ところが、そういう重苦しいものを抱えるととたんにでてくるのが「イラつき」そして「飲酒欲求」のような変な気分。酒で酔いたいわけじゃない(今更普通に酔えるわけじゃないことはわかってるし)、でもどこか「自分の空間」に逃げ込んでしまいたいという思いが出てくる。こういうのがニョキニョキ出て来るとよろしくない。もぐらたたきじゃないけど、自分のこういう発想が出てきたらとにかく叩く。そして甘いものなどをたらふく食べてなだめる。

 被害が一番少ないところで収めていくというのも生活の知恵なんだ。

2008年9月3日水曜日

行動を始める

 まずは職場に手紙を書くということに取り組み始めた。必要以上に自分を卑下することも無く、そして尊大になることもなく、ただ自分の現状や休職期間に取り組んできたこと、そして医師からの診断書が出されることなど。

 もちろん、まずは自分で読み返しながらどこに問題点があるのか、書き方に変なところは無いかチェックしないといけない。

 アルコホーリクにとっては手紙一つを書くということもとても難しいことなんだと思う。卑下すれば不利になる尊大になるとはねつけられる、どう書けば受け入れられやすいのか、できるだけシンプルに・・・
ああ難しい。

2008年9月1日月曜日

不眠と苛立ち

 わかっちゃいるんだ。自分が休職していられる期間があと一ヶ月ってことになって、またもや頭の中で不安や恐れがもたげてきているってこと。「復職できるのだろうか」「受け入れてもらえるだろうか」「仕事ができるのだろうか」「退職勧告をされるのではないか・・・」

 どれも自分の心の中での思い込み、妄想。実際に復職の意向を相手に示して相手側がどう話をしてくるのかがわからなければどうにもならないことなんだよ。

 だけど夜、暗くなって床に就くとこういう妄想が襲ってくる。

 神様、私の恐れを取り除いてください。そして私に不当なことをした人たちに心の平和が訪れますように。私が再び一人の職員として働けるかどうかは、私の問題です。私が本当に働きたければ、そして誠実に心からの反省を示すことができれば仕事を続けることはできるでしょう。私にあなたの意志を行っていく強さをお与えください。