2008年8月22日金曜日

自分が抑鬱症状に至ったわけ

 私は年度の切り替わりの辺りからひどい精神状況になり、結局5月半ばから休職せざるを得ないほどの抑鬱状態になってしまった。
 当初は仕事のストレスが原因?と思っていたのだが、この休職期間中にしっかり内観療法(ミーティング形式で行われる12ステッププログラム)に取り組むことができて自分のストレスの大本にたどり着くことができた。

 もちろん仕事でのストレスもあったのだが、それはむしろ自分で作り出していたという側面も多く、そういう問題を作り出してしまうような自分になってしまった大本は違うところにあった。

 「実家」というものは多くの人にとっては心の安らぐ癒しの場であるのだろうが、私にとっては「できることなら関わりたくない場」だった。理由は長くなる。少しずつ書いていくしかないだろう。

 まず私の成育歴
 私は3歳の時に埼玉の浦和に引っ越した。父が土地を買い、一戸建てを建てたからだ。間取りは一階が10畳のリビングと四畳半の和室、それにつながる変形四畳半の納戸のような北側の部屋、それに風呂と当時としてはめずらしい「対面式キッチン」。二階が10畳の和室・洋室半々の部屋と8畳の父母の寝室兼書斎?(実質父親の一人で酒を飲む部屋)。
 間取りから見ても建て始めた時は父母と私と兄の四人家族での生活を前提としていたとしか思えない。しかし母にとっても父にとってもそして兄にとっても思いがけないことが起きた。(父にとっては本来思いがけないということであってはいけないものであったと思うのだが)
 父には先妻との間に四人の娘があり、その先妻が結核で療養所での隔離生活となっていてこの四人の娘も一番上の姉は母親から結核をうつされ、療養所に、そして下の三人は児童養護施設に引き取られていた。しかし先妻が結核で亡くなってしまった。そして児童養護施設では認知している父のところに事情を聞きに来て、新しい一戸建ての家を建てるのであれば当然娘たちを引き取って育てるように指示を出した。

 母としては姉夫婦が小さな建売住宅で暮らしているすぐそばで、当時としてはモダンな自由設計での一戸建ての新築の家で夫婦と二人の息子の四人で優雅に暮らして自慢するという夢を描いていたのだろう。けれども、こうした夢は突然思春期に入った血のつながっていない三人の娘を引き取って育てなければならないという現実に直面した。当然多くの夫婦喧嘩が起きた。夢の新築一戸建ては「突然襲ってきた」「敵の娘」の「乱入」によって資金計画の変更、設計の一部変更を余儀なくされた。

 引き取ることには承諾したものの、生活は大きく変化した。優雅な四人家族から七人家族になり、実子である私と兄は予定通り二階の十畳を与えられ、私たち(当時私が3歳、兄が小1)よりはるかに年齢が上の姉たち(当時中二・中一・小5)は一階の四畳半と納戸のような部屋に押し込められた。
 まだ無邪気だった私は新しく「家族」になった「姉」たちのことをすぐに好きになり、「姉」たちも私のことをかわいがってくれた。しかし母と兄の心中は穏やかではなかった。母は二言目には「ボロボロの服で乞食みたいな格好をしてんのを引き取って服を買ってやって・・・」と愚痴をこぼす。姉たちの母親に対しては嫉妬もあったのだろうがぼろくその差別用語を使ってこき下ろしていた。
 そして私はそういう母の言葉を聴く相手はいつも兄だった。兄にしても、それまで長男として私が生まれるまでは一人っ子も経験して溺愛されてきたのが、姉たちの登場で自分の位置が脅かされていると感じていたのだろう。兄と母は明らかに共依存関係になっていった。
 父はだんだんと無口になり、家族の団欒も回数が減り、家族旅行もしなくなった。現存する写真を見ても、私が3歳までの写真はたくさんあるのに、それ以降は写真もろくにない。父の仕事からの帰りは遅くなっていき、帰って来てもすぐに二階の「書斎(酒飲み部屋)」にこもってテレビを見ているだけになっていった。

 こういう家庭内で緊張感がある状態の中で私は過ごしてきた。「三人の姉VS母と兄」その狭間で、なぜ仲良く暮らしていけないのか、どちらにも気を使い、無邪気を装い、時には母や兄に意見を言っては「お前は何もわかってないんだから黙っていろ」と沈黙を求められ、居場所がなくなっていくことを感じていた。父は気まぐれに私をかわいがってくれたのだが、あくまでも気まぐれだった。

 母は結局は姉たちを就職が決まりひとり立ちできるところまでは面倒を見て育て上げた。途中では父親の急死で生活に困った知り合いの息子(私と兄との間の年齢)を受け入れて育てるということまでした。基本的には面倒見がいい人なのだ。けれどもやはり兄が一番特別な存在であるということには代わりが無かったのだろう。この知り合いの息子を受け入れたのも私と兄との関係が悪化して兄弟げんかが耐えないのを変えるという意図もあったのかもしれない。

 兄は精神的に不安定だった。気まぐれで怒ったり怒鳴ったり、あるいは愛想良くしたり、私としてはまったく理解不能だった。兄は私が中学生の頃から私に酒の相手を求めた。最初は適当に相手をしていたのだが、だんだんと私も酒につかまって行った。高校生になった頃には兄が毎週末にアルバイトの給料で買ってくる酒を期待するようになっていた。非常にプライドばかりが高く、自分を大きく見せるのがとにかく癖だった。兄のこのプライドをちょっとでも傷つければ徹底的に怒鳴られ、ねじ伏せられた。
 勉強に関して言えば、だらしない割りに私は成績は良かった。特に高校に入ってからは急激に伸びた。浪人生だった兄にとっては私の方が勉強の方で成績が良いということも気に入らないと思う面もあったのかもしれない。

 私の心の方は小学校の高学年以降は固く閉ざされていた。兄とも酒を酌み交わすというところでは相手はしても自分の心の内の苦しさを吐き出すことはできていなかったし、兄との飲酒も最初は何気ない会話で始まり、途中でいい機嫌で陽気になり最後は大喧嘩の怒鳴りあいで終るというのがパターンだった。私は中三の頃小説を書いていた。稚拙なものであるが、すでに「死」を意識し、自分の中に時々突然訪れる「死」への誘惑を現実の「死」の醜さを描いていくことで「死」にはなんの解決もないという主題だった。「生きる」ということを積極的に肯定するというユーモアは持ち合わせていなかった。ただ「死にたくないから」「死んでも何も解決にはならないから」「生きている」という目的も方向性も見出せないけど生きている自分の苦しさが根底にあったのかと思う。もちろん自覚はしていなかったが。

 こういう育ち方をした人間にとって「実家」というものが「ほっとして安心できる場所」になるはずがない。「実家」はできれば二度と帰りたくない場所であり、自分にとってとても辛いものを思い起こさせる。特に父の死後、母と兄の二人暮しになった実家はもはや「家族の集合場所」ではなかった。

 ちなみに父の死に方は完全にアルコールに取り付かれた人間の末路だった。脳梗塞で軽い半身麻痺で仕事ができなくなり、酒量が増え、再度の脳梗塞で麻痺は悪化。糖尿も発症。そして三回目の脳梗塞で意識不明、糖尿の悪化による壊疽で右足切断、最後は院内感染での肺炎だった。
 「死因」だけ言えば「肺炎」だが、アルコール依存症者が死んでいく過程ではよくあることだ。
 「肝硬変」「糖尿病」「肺炎」といった死因の患者の中には、実質的にはアルコール依存症が大本の原因になっている人が多い。
 父が死んだ後、母は三人の姉たちに「手切れ金」として父の保険金からいくばくかを渡している。
 どうしても「和解」をする気にはなれないようだ。

 今日はここまで。


 

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