2008年12月31日水曜日

2008年を振り返って

 今年はとんでもない年だった。干支が子の年男だってのにね。
 1月~2月はまぁなんとか仕事もできたしどうにかなっていたけど、2月の末辺りから軽躁状態に入ったんだろうな。なんだかブレーキが壊れた暴走列車になってしまった。
 3月~5月は躁状態でブンブンだった。あれこれ手をつけるんだけど脳みそがパニクってどうしようもない状態。正直自分で自分が嫌になったね。
 5月~6月でこの状態から脱して鬱に入ったのが7月。
 7月~だんだんと正常化していった。
 9月になってようやく自分の状態を把握できるようになり、11月に受け入れることができた。
 結局仕事を退職して今後の見通しも特に無い状態。困ったもんだ。

 だが良いこともあった。
 とにかく一番はAAに改めてつながり直せたこと。これは自分を見つめなおす上で第一のことだった。
 そしてAAの先行く仲間のおかげで通所施設に通わせていただけるようになったこと。ここでたくさんの「気づき」をいただけた。
 最後に職場を「手放す」ことで借金との取り組みに向き合うことができるようになったこと。

 新年にはこうした基礎の上に自分なりの今後の目標というものを見つけられるように願いたい。

2008年12月29日月曜日

退職金処理の確定

 やっと退職金が確定した。過去の積み立て分が加算され総額は80万ちょい。まぁそんなもんだろうな。これ以上ゴネゴネしてもどうしようもないし、「考え方」のものさしは彼ら健常者の判断の方が正しいだろうと思って合意した。

 過去積み立ての総額は本来は100万あるはずなんだけど、途中で自分に取り崩してきたお金が15万あるしそのほか、いろいろあったから、80万超という評価は妥当だよ。少なくとも持ち出しはなくなった。それだけでも満足しないといけない。

 社会保険料の個人負担分やすでにもらっている分を差引いても訳10万が共済分のほかに出るから手取りは65万。だけどそれでも助かるよ。これですっきりだな。

 退職金が確定して銀行口座の変更が終れば後はこれまで計画していた通りに処理していきましょう。
半分は自己破産の経費になるけどね。

2008年12月26日金曜日

正しい「ものさし」の使い方

 「ものさし」はものの長さを測る目盛りの付いた棒です。でも、AAではよく「自分のものさしで物事を計るな」と言われます。なぜならアルコール依存症の人間は酒の入ったグラスの底から物を見るので「現実」が歪んでぼやけてしまい、自分の勝手な思い込みで決め付けてしまうからなのです。大切なのは自分の身に起きてきた事実を事実として受け止めて、自分の思い込みの特徴=弱点をつかみ、自分の勝手な思い込みの世界から脱出していくようにしなければなりません。
 この「アルコール依存症者のものさし」は自分に都合のいいことには小さな目盛りがいっぱい付いていて、自分に都合の悪いことには大きな目盛りがまばらに付いています。そしてさらにものさし自体も曲がっていて本人はまっすぐ当てているつもりでも実際には歪んでしまっていることもあるのです。特に自分に都合の悪いことについてはものさしが触れないようにちょこっと当てて、大きな目盛りで「こんな程度だよ」と自己正当化するのです。そして自分に都合のいいことについてはこれ見よがしにど~んと小さい目盛りで「こんなにやったんだぜ」と自慢するのです。
 高慢で自己中、それがアルコール依存症者の特徴です。高慢だから反抗的です。他人から「こうしろ、ああしなさい」と言われるのには我慢ができません、でも自分は他人に「こうしろ、ああしなさい」と言うのは大好きです。おだてられれば木に登るし、自分が世界で一番偉いなんて思い込むのです。
 酒を止めても考え方が自動的に変わるものではないのです。一時変わってもすぐに元に戻るし、そうなると以前よりもっと酷くなるのです。
 持続的に自分の生き方、考え方を変えていく訓練が必要です。でもそれは健常者の教育では不可能なのです。同じ病気の者たちが、互いに自分のことだけを話す。自分で自分を語る。仲間が話すのを聞く。その繰り返しの中で、「あいつ狂ってるなぁ、そんなことあり得ないじゃない」と思いながら、時々自分も同じようなことをしていたことを思い出し自分に「気づき」というものをもらうのです。
 同じように自分が語る自分の話から他の仲間が得られることもあるのです。だから「与えるから受けとる」のです。この場所がミーティングです。自分の目盛りの確認場所なのです。自分では健常者になったようなつもりでいる仲間もいますが、そういう仲間が正直な話をすると案外結構狂っていたりするのです。この病気は完治はしません、いつでも死と向かい合っているんです。

 飲まないで生きるか、飲んで死ぬか だから飲まない今日一日のためにミーティングに行くのです。

2008年12月23日火曜日

後ろを向いて歩いていると電信柱にぶつかるよ

 そうなんだよ。後ろを向いてああだったのこうだったの、あれがいけなかった、これがいけなかったと愚痴ってばかりいると考え方が全部後ろ向きになってしまう。
 自分のこれからの先を考えていかないと。前向き前向き私のAAスポンサーもいつも口癖のように言う「前向きに生きなよ」って。そう過去は変えられないけど未来は変えられる。受け入れること、変えていく勇気。大事なことはここにある。

 最近見たDVD
 「三丁目の夕日」 高度経済成長の中の町工場の社長や戦争の痛手を背負いながら生きている医師、親に捨てられた子ども、親の入院費用のためにストリッパーに身を売った若い女性。すべて私たちの父母が通ってきた道だった。今では考えられないほど貧しかったけど、みんな「未来」を信じていた。未来を信じられない社会は病んでいる。

 「フラガール」 常磐炭鉱の相次ぐ事故、閉鎖の危機とそれによる失業への不安の中、炭鉱の町常磐を炭鉱の温泉で盛り上げようとフラダンスを売り物にした施設の立ち上げに奔走する若い女性たち。そしてそれに励まされて共に力をあわせていく男たち。どんな苦境の中でも未来を自分たちの手で切り開いていこうという勇気は一人の力でできるものではない。

 「怒りのぶどう」 スタインベックの小説の映画化だけど、ヘンリーフォンダはでくの坊みたいだけど、アメリカでも今の日本の非正規労働者の解雇と同じことが起きていた時代があった。叩かれても叩かれても立ち上がっていく農民たち。決して明るい未来が保障されているわけではないけれど、働くこと、生きることに必死に立ち向かうのが人間の本来の姿なんだと信じる気持ちにさせる。

 私はどうなのか・・・?自分の不始末で作った借金で汲々として自分勝手に苦しいと言っているだけじゃないか。退職金もくれるだけましじゃないか。これから自分で稼いで行けばいいんだ。働いて、仲間の中にいれば喜びもある。今、ここにある幸せ。それを大事にできないで何を大事にできるのか?

 もう後ろを向いて歩くのはよそう。過去の経験は未来に生かすためにある。自分の経験は新しい仲間たちに教訓になる。仕事でも同じだろう。明日に向かって歩いていこう。

2008年12月22日月曜日

退職金・・・

 なぜかまだ不確定な退職金。20年働いてきて54万だけ・・・ってふざけるな!って気分になっちゃいけないのかな?せめて100万は欲しいよ。

 その上社会保険料の個人負担分も支払ってください・・・あ~なんかもうやってらんねぇよ。

 単純計算で月々5000円ずつ積み立てたとしても120万は確定でしょう?

 まぁ俺の働き方に問題があったからこういう形での退職になったんだけどさ。
 それにしたってやっぱり少なすぎるよ。

 今勤務している連中は10年働けば60万の退職金が保証されるように設定したんだよ。

 そりゃあね、無事これ名馬ってことわざもあるから、俺みたいに緊急時にはチョーハイテンションで走るけど、平時にはモチベーションが下がりきってダメダメっていう馬じゃ困るんだけどさ。

 けれど54万だけ・・・って・・・

2008年12月19日金曜日

嵐の後

 心の中の嵐がようやく収まった。嵐の代価は10万円。自分を壊したい衝動を抑えるために(はたしてこれが正しい収め方とも思えないのだが)要した無駄金。どぶに捨てたようなものなのだが、でも結果として自分の内面の衝動は自分では抑制できないという事実を目の当たりにする経験をして、自分の無力を改めて思い知った。
 退職とか様々なプレッシャーに見舞われたときに訪れてくるこの衝動。もちろんこんな衝動が起きないような心の強さが欲しいのだが、今はまだそこまで到達できていない。次はこの10万円をどこから捻出していくかということが新たなプレッシャーとなってくるんだろう。悪循環だ。馬鹿げているし自分で自分が嫌になる。全部壊すか、いや、それもできない。だから中途半端ではどこにも行けないんだ。徹底的にやらないとね。自分の弱さの根源をたどっていかないと。
 たぶん、それは自分で自分の居場所をなくしていく生き方を求めてしまう本能的なものなのだと思う。自分の成育歴から思うに、「居場所が無い」という状態が自分の幼少期の姿なんだろう。でも居場所が無いことには人は耐えられない。だから「居場所が無い」から「居場所を作る」という方向に自分の思考を変えていかなければいけないんだと思う。「居場所がある」ということはそこに生じる責任を引き受けていくという覚悟が必要だし、「どんなことがあってもここだけは守る」という気概が必要なんだ。自分に欠けているのはこの「覚悟」と「気概」だと思う。そういう強さが欲しいと心から願っている。

2008年12月16日火曜日

ピキピキピキ

 このところ脳みそ、精神、心の深いところにひびが入ってきている。ピキピキピキと音を立てている。
 もうダメかもしれない。入院してオーバーホールをしたい。どうにもならない衝動に襲われてしまう自分。理性なんかなんの役にも立たない。本音、本性、本能が肥大化してむき出しになってきていることをひしひしと感じている。

 妙にハイな気分。壊れちゃえ。

2008年12月14日日曜日

無理な仕事だった

 退職の日を一日憂鬱に過ごした。特に連絡もなかったので予定通り処理されたのだと思う。

 思えば無理のし通しだった。
 学童クラブの移転問題から始まり、父母と指導員の共同運営から理事会による運営に移行するまでの体制作りを整えるまでに5年がかかった。その間障害児施設の移転があった。そして職員の休職によって精神的負担は増えていった。二つの性格の異なる施設の所長を兼任し、指導員としての責務も兼任し、労務管理、対行政手続の作成及び提出責任者を兼任し、様々な対外的活動での職場代表も兼任し、NPO法人の管理運営実務も兼任していた。
 
 普通の人でも精神を病むような責任だったろう・・・でも普通の人はこんな無茶な兼任は絶対しないだろう。できなくて当たり前なのだから。

 私は壊れた。かなり深いところまで壊れてしまった。この壊れた心は回復できるのだろうか?
 この点も疑問符だらけだ。自分はもう元に戻れないんじゃないかと思う。

 破壊したのが食堂の家具だったにせよ自分の精神であったにせよ・・・自分の精神が健全だとはとても主張できない・・・。その通り。私は狂気の中にいた。今もまだ狂気は健在なのだ。

 

2008年12月12日金曜日

いよいよです

 明日が退職日、そして15日に諸手続きをすることになっています。
 やはり気持ちが落ち着きません。
 自分の選択が正しかったのか、やはり最後までじたばたすべきだったのか、わかりません。
 いつかわかるのでしょうか?
 私は何のために20年を過ごしてきたのでしょうか?
疑問符がいっぱいです。
 でも今の自分にはあのハードな仕事は無理だということはわかっています。
 そうなんです。無理をし続けた最後の5年間だったのです。

2008年12月5日金曜日

師走でおわす

 いやはや、なんて忙しいんだ。家事や回復施設通所の他にやらなきゃならないことがいっぱいありすぎ。それもタイミングが全部ちょうどキリが悪い。自立支援申請をした直後に健康保険が変わる。これもまた要手続き。離職票についてはこれまた預金口座がなくなったらどうするんだ?
 資格取得の活動もしなきゃならんな。退職金の受領もあるし、なんだかすっごい忙しい年の瀬だよ。

2008年12月2日火曜日

疲労感・徒労感・倦怠感

 疲れている。何に?とにかくいろんなことに・・・・。
 たぶん、一つは退職という事実が迫ってきているということで不安になり、神経質になっていること。
 それに、健康保険証の切り替えなど行政手続がいろいろあることへの疲弊感。
 退職金がすずめの涙ほどしか出ないだろうし、自己破産の資金にしかならないという事実への徒労感。20年かけてお前は何をやってきたんだ?という徒労感。
 ハローワークに離職票を持っていっていろいろやらなきゃならないということもうんざり。
 しかも、こうした現実を素面で冷静に受け止めていかなければならないという自己抑制。こういうときはもっと大騒ぎしてもいいんじゃないか?とも思うのだが、それも大人気ないしなぁ・・・。
 
 たぶん一番楽なのは、自分で自分を消しちゃうことだと思うんだけど、次男の寝顔を見ると、彼の心に傷をつけたくないんだ。よくなりたい自分、消えてしまいたい自分、二つの自分がせめぎあっている。こういうのを統合失調って言うのだろうか???
 

2008年11月26日水曜日

怒り・・・コミュニケーションの不足と思い込み

さっき怒りが湧いた。昨夜自宅の階段昇降機が故障したのでメーカーの保守点検サービスに連絡したところ、今朝の9時ごろ連絡が来るということになっていた。そこで私が電話に出ることにしようと中間施設に午前は休むと連絡をした。次男を保育園に送っていって9時前に帰って来て電話を待ったが来ない。そこで連絡したところ、どうも行き違いが生じていた。
 義母が出かける段になって「さっき9時にエレベーターの方から連絡があって10時に来るって言ってたんだけど、その時間じゃ誰もいないから1時にしてくれればと言っておいたよ」とのこと。
 確かに、私が対応するということは家族全員に確認はしていなかった。しかも義母は最近とみに耳が遠くなってきているしボケをかますことも増えてきている。念を押すか、連絡先を私の携帯にしておけばよかったのだ。それに1時ということになれば中間施設に全く行けなくなってしまう。
 「誰が対応するのか」「どの時間帯に依頼するのか」を明確にしておくこと、「誰もいない」という思い込みで対応しないこと。ちょっとしたことではあるのだが、大抵の怒りはこんなところから発生するんだろう。

2008年11月22日土曜日

やはり、疲労・脱力・無気力が続く

 何をしたというわけでもない、ただちょっと職場のことで妻のルートから問い合わせがあったというだけのことなのだが、それだけでものすごく動揺して、ちょっと昔のペースでの話を電話で職員としただけなんだけど、それだけなのにすごい疲れている自分。
 やはり隔離された場所でのんびりと何も考えないで過ごすような時間が必要なんだと感じる。この疲れ方、脱力感は酷すぎるし、しかも自己嫌悪を引き連れてくる。勘弁してください。もう、ほんとに、ごめんなさい・・・という気持ちになる。

 走り続けた20年は私にこういう結果をもたらした。恐らく実質的にただ同然の退職金で追い払われる。俺はそれだけの人間なんだと思い知らされる。

2008年11月20日木曜日

なかま

 今通所している中間施設(アルコール依存症から回復して社会復帰できるように支援していく施設)への通所者が突然増えた。あっという間に5~6人入ってきた。病院を退院してすぐの仲間は大抵ぼ~っとしていて何がなにやらわからないまま人の話も聞けないで座っている。でも仕方ないんだ、本当にアルコールという奴は徹底的に身体も心も壊していく薬物だから。現実逃避の手段から現実が直視できなくなって逃避している泥酔状態での妄想を現実と思い込む倒錯した意識状態から、身体からアルコールを抜かれて(解毒点滴という穏やかな方法もあり、ガッチャン部屋という乱暴な方法もありだが)、実際のところ「浦島太郎」状態なのだから。はっきりしている記憶は酒が酷くなる前の「古きよき時代」だけど鏡を見ると確実に老けて、昔自分が自分に抱いていたイメージとはかけ離れた表情をなくした自分が映っている。一体いつの間にこんなになったんだ・・・訳がわからないはずである。
 身体にもあちこちダメージが自覚されてくる。最後救急車で病院に運ばれた仲間たちは、最初は歩くこともおぼつかない。ロボコンに出場しているロボットの方がずっとましって状態。足腰の痛み、血液数値の異常さ(栄養失調の後遺症によるカリウム、ナトリウムなどの欠乏や痛風など)歯もボロボロが多い。大体酒を飲み続けている時は歯を磨くなんてしないし、歯が痛んだら自分で無理やり抜いたりしてしまうくらいだったんだから。

 話ができるようになるまでに二週間から1カ月、通院治療で効果が出てきて体の故障が回復してくるのが2ヶ月~3ヶ月、ミーティングで人の話を聞けるようになるには早くて1ヶ月、中には3ヶ月くらいかかるなかまもいる。ミーティングのテーマを理解してテーマに沿った話ができるようになるのには半年くらいかかる。自分のおかれている状況や自分の身の回りのことを自覚できるようになるのもこのくらいかかる。一滴の酒も飲んでいなくてもこうだ。アルコールというものの威力、脅威、恐るべし。

 そして違い探しがあって、あら捜しがあって、夜のAAミーティングの棚卸が始まって、そこから本当の違いが出てくる。忠実にAAプログラムを進んでいくなかまと適当にさぼりながら体裁を繕っていくなかまと。「飲まなければ生きる、飲めば死ぬ」単純なことなんだが、飲まないためにはミーティングに出続けること。それがすなわち「生きる」ことを選ぶということだと思う。

2008年11月18日火曜日

犬の思い出

 まだ幡ヶ谷の借家に住んでいた頃、父・母・兄との四人暮らしで一匹の犬を買っていた。ダルメシアン系の雑種で白に黒い斑点のある中型犬だった。名前は「ポチ」変哲もない名前だが、私はこの「ポチ」が大好きだった。だから犬と言えば「ポチ」だったし、一緒に犬小屋で昼寝をしていたこともあったそうだ。 よちよち歩きの頃、この犬には随分お世話になったらしい。
 埼玉に引っ越して驚いたのは「野良犬」という生き物の存在。誰に飼われているわけでなく、辺りを歩き回り食べ物を求めてさまよう。時には子どもに噛み付くこともある。野犬狩りも行われていたが、まだまだ野良犬はたくさんいた。 もちろん狂犬病の予防接種も行われおらず、かなり怖い存在だった。
 そして私が大好きだった「ポチ」は野良犬の「ボス」と名づけられて恐れられていた大型犬にかみ殺されてしまった。引っ越してまだ数ヶ月のことだった。悲しかった。
 その後も私の家ではスピッツ系の「リリー」そしてその息子の「チロ」を飼っていたのだが、「チロ」は愛嬌があって毛がふさふさで好きだったが、「リリー」は癇が強いというか、神経質で好きになれなかった。
 まだこの頃は犬に「ドッグフード」なんてものを与えるのは金持ちだけだったから、フェラリアの予防接種とかもしていなかった。結局二匹ともこの病気で亡くしてしまったのだが。

 私はもう犬を飼うという気にはなれない。その後も実家では屋内犬を飼っていたのだが、私はもう犬の臭いと、世話をろくにしないでただいじくってかわいがる無責任な飼い主の姿に嫌気が差しているから。私が生活にゆとりが持てるようになったら(そんな日が来るかどうかわからないが)また考えてみようと思う。

 

疲労・脱力・無気力

自分にとって一つの時期が終った。過去の自分の時期を改めて区切りなおして整理してみたくなった。

幼年期 幡ヶ谷の貸家で一家四人+犬一匹で暮らしていた頃(3歳まで)この時期が一番幸せの原点だったと思う。

少年期 父母が埼玉の浦和の端に土地を購入して家を建てた。不動産財産を持つことになったこと、腹違いの姉たちの母親が亡くなったことによって、姉たちの引取りをめぐって父母はケンカ、家の設計も二転三転した模様。
結局腹違いの姉たちと私の実母と兄とはなかなか和解できないまま私は勝手に居場所を無くしてアナーキーな生活になっていく。

青年期 中学の終わりごろから高校にかけて、週末には兄が必ず一升瓶を買ってきて私と酒を飲んでいた最初は当たり障りのない話から、楽しく盛り上がり、ある一点を超えると大喧嘩になってブラックアウトというパターンだった。

18で家を出て、大学へ。でももう酒につかまっていた。何をしても結局酒で台無しにしてきた。酒でうまく行ったこともあったが、酒で壊した。25で私はすべてをなくしていた。

27から今までが今までの人生で一番楽しいけれども苦しみも抱え、人間らしい時期だったかな。

幼年期から25までの20年、27から47までの20年、次の20年がどんな時間になるのか・・・。

けど、今はとにかく疲れて何もしたくない。できれば半年くらい入院してリハビリしたいな。

2008年11月13日木曜日

退職勧告と退職願

 今日職場で私の問題についての話し合いがもたれた。自己破産という言葉で職場は随分混乱したようだ。職場の預金が差し押さえられるのではないかと真剣に悩み、焦り、迷走したもよう。私のほうに実情を聞くという手続きはまったくないまま「迷惑ばっかりかけて」という罵声が11日に浴びせられた。どうして実情や事態の進行状況を尋ねてこないのか私には不思議だったのだが、やはりいわゆる不十分な情報で実情を確認する余裕も持てていなかったのだろうと思う。
 職場は慌てて預金の名義を変更する手続きを行うため相当苦労した模様。まぁ職場の方も私の手を煩わせることなく解決したかったようだからそれは仕方ない。職場の処置がどうのこうの言うほど私は偉くないし、自分のこともろくろく対処できないのだから言う資格もない。
 話し合いの中でこの問題の経過についての経緯についての誤解は解決。そして私には最終的に「退職勧告」が出された。たぶんそう来るだろうと思っていたので私も「退職願」を用意していた。理由はとても整理されていたし、私の仕事量の重さについても言及されていたので、私としても納得できるものだった。ここで闘っても周囲を巻き込み子どもたちを巻き込むことになるだけになるから、闘うことを放棄した。私が素直に退職することでいろんなことが丸く収まっていくのだから。
 多分、この決断は、今の私にできる「最善」の決断だったと思う。「ロープの端まで来たら手放せ」今がそのときだ。

 気持ち的にはホッとした気持ち、重いコートを脱いで軽くなったような気持ち、けれども大きなものを手放した喪失感などいろんなものがない交ぜになっている。落ち着くまでにはまた数ヶ月かかるだろうと思う。借金の問題もあるし・・・。

 でも、残りの借金の問題を解決すれば随分自分を楽にすることができると思う。
 今日一日24時間 12stepのプログラムを。
 神様、私にあなたの意志を行っていく強さ、勇気をお与えください。

2008年11月6日木曜日

借金との取り組み

 簡単に「自己破産」なんて決めてどうなるもんでもない。まずは自分で支払えない状態になってから、ローン会社に事情を説明して、なんとか返済の負担を軽くしていけるようお願いする。そういう努力をしているうちに、いろんなことがわかるようになってきた。
 今まで滞りなく返済してきた実績自体が「信用」というものの証として認めてもらえること。自分の方から正直に説明することで相手に好感を持ってもらえること。なるほど、世間というものはそれほど酷いものではないものなのだ・・・と初めて思った。
 借金で借金を返して行って結局は雪だるまになってにっちもさっちも行かなくなるのは、きちんと正面から向き合おうとしないからなんだな。「恐れ」というものは向き合って解決の方向を探っていく努力をしなければどんどん大きくなるんだ。
 自分でちょっとだけ大人になれたような気分に浸っているここ数日です。

2008年10月5日日曜日

破産ということ

 銀行口座が作れなくなる
 カードをすべて返却することになる
 自分名義での財産形成ができなくなる

 これまでのもので、自分名義で作ってきたものをすべて手放さなければならなくなる。
 職場にも自分名義の口座や契約がある。これをすべて名義変更しなければならない。
 非常にやっかいである。
 とても面倒である。

 だが、他に解決の道はないらしい。
 ならばそうするしかない。
 
 真実は単純(シンプル)なものなのだ。

2008年10月2日木曜日

借金・自分のこれまでの働き方・・・

 借金をしたのは自分です。妻に内緒で給料から自分の手持ち金を差引いてきたのも自分です。だから自分で借金を返さなければなりません。当たり前のことです。でもどうすれば返していけるのか、わかりません。それで頭が混乱しています。
 休職中ですが、復職すれば手取りで23万ほどになります。でもこれは私の給料だけれども私のお金ではありません。家族みんなのお金です。そこから3万も返済に充てたら赤字になってしまうのです。
 私のおこづかいは週3000円です。休職が終れば5000円にしてくれるかもしれません。でも全額使っても月額20000円にしかなりません。
 
 私の年収は
 H12年 287万 H13年 294万 H14年 315万  H15年 222万 H16年 270万 H17年 294万
 H18年 292万 H19年 345万 

 なんて低いんでしょう。これで「管理監督責任者」だったのです。H19年には勤続20年でした。
 H14~H15の落差が無ければ、もっと生活は楽になっていたでしょう。
 でも後の祭りです。
 
 言いたいことはたくさんあります。文句も言いたい、金をくれと言いたい。でも無理です。
 私はどうしようもないところに立っています。
 H17年の一年が自分にとっての大きな節目になってしまいました。私は自分を試され、自分に負けました。18年の春からひどくなり19年には死にたくなりました。でも生きていたいともがいています。
 破産です。借金の額は112万です。これで破産です。

 どうしても納得できないです。

2008年9月25日木曜日

妻への感謝2

 長男が難治てんかんで発作がおさまらないまま4歳で入院生活を終えた。そして自宅での生活となったが、妻は保育園への受け入れを求めて行政に何度も足を運んでいった。理由は長男のような重い障害を持つ子どもたちの母親も働くことができるような学校が終ってからの放課後の受け入れ施設作りを作る運動を始めていきたかったから。そして長男が6歳の時に実現した。最初は古い医院の跡地で部屋も狭く暗かったが、そこで障害を持つ子どもたちの受け入れをしていった。長男も養護学校小学部の後の放課後の時間をそこで過ごすようになった。

 妻は忙しかった。施設の運営と障害の重い長男の育児とで毎日走り回っていた。
 私は妻がいなくなった後の事業を引き受け、非常に苦しい運営だったが、子どもたちとのかかわりが楽しくて続けてこられた。だが私は飲み続けていた。もちろん朝酒はやらない、昼間も飲まない、けれども夜8時過ぎ、長男が眠ると(妻も一緒に眠る)私の全開の時間だった。ワープロでのniftyサーブでのパソコン通信やら読書をしながら飲んでいた。

 それでもこの頃はまだそれほど深酒を続けるというほどでもなく、休肝日も設けていられた。

 私がおかしくなっていったのはやはり学童保育の運動にのめりこんでいった頃だと思う。保育園父母との関わり、事務所での夜遅くまでのチラシ作り、その後の痛飲の日々。行政というものの理不尽さを怒りつつ、自分を自分で破壊して行った。

 妻が偉いのは、そういう私をほうっておくことができたこと。もちろんかまっている時間もなかったのだろうが、自分は自分、長男と自分の生活は決して乱さなかったし、私が乱せばそれを拒否した。
 長男の入学式も私は二日酔いだった。私は子どもの行事に出ることが億劫でわかっていて深酒をしていた。二日酔いなら許されるという浅はかな考えだった。
 
 妻はそういう私に何度か素面の時を選んではっきりと言っていた。翌日の予定に影響するような飲み方はしないで。

 私にとって、酒を飲むということは意識がなくなるほどの痛飲を意味していたから、ほどほどに飲むなんてことがわからなかった。

 私は事業関係の運動を続けるなかで、浮気もした。妻は長男を抱いて私とその女性が飲んでいるところにやってきて、「この子をどう考えているの、このこの将来に責任をもたないでいいの?」と私の心にわずかながら残っている良心に訴え、私は自分の卑劣さを認めた。

 しかし苦しかった。仕事でのパートナーも長続きしなかった。

 そして事業所の移転という問題が持ち上がった。私はもう自分ではどうすることもできなくなっていた。毎晩ブラックアウトするまで飲み続け、だけど朝酒は飲まない、昼間も飲まないという苦しい状態を4ヶ月も続けていた。8月の終わりの打ち上げで、私はいつもは一次会で帰る飲み会に二次会まで出てしまった。そしてそこで帰ろうとして足がもつれ、送っていってもらった。身体が異常に重かった。肝臓の辺りがパンパンに張っていた。

 その頃はもう家庭内別居だった。妻と長男は別室ですやすやと眠り、私は階段を挟んだ部屋で酒を身体に注入していた。

 9月3日、妻は私を病院に連れて行ってくれた。自分も目にヘルペスが出て酷く痛むというのに。最初は内科に行った。そこでは「酒は控えめにね」といわれただけだったからホッとした。しかし次に回った精神神経科で、「アルコール依存症です」「断酒するか、ボロボロになって死ぬかしかありません、どっちにしますか?」と言われてしまった。目の前は真っ暗だった。もう酒が飲めない??俺の苦しみを癒してくれる酒、何もかもかすんだもやの中に隠してくれる酒を・・・そんなのできるわけない!!追撃がきた「奥さん、こんな男はダメですよ、酒止める気なんて全然なさそうですから、もう離婚しなさい、関わるだけ大変になりますよ。ボロボロになって死んでいくんですよ」ぐぅーーーーーーーーーーーーーー!!
辛い数分間だった。身体がボロボロに重かった。これが楽になるのかもしれない、妻とやり直せるのかもしれない、長男を育てていくことができるのか・・・・・生きたい・・・・と思った。
 このとき私の断酒が始まった。
 妻は断酒で苦しむ私を支えてくれた。暖かく。妻の身体は、心はこんなに温かかったのか、それを全く忘れていた自分・・・失ってきた時間は戻っては来ない、でもまだ俺には時間がある。

 それから二ヶ月はとにかく自力の断酒だった。飲みたくなる心を怒りや叫びでごまかして、妻を抱きしめて止めてきた。だが自力だけでは限界があるということを医師からも言われていたので自助Gに行くことにした。職場の近く、家の近くで探し、会場に行くと、そこにはアルコール依存症者の仲間がたくさんいた。最初はわけもわからなく参加していたが、次第にいろんなことがわかってきた。
 アルコール依存症は肉体的にも病気であること。そして精神的にというよりも霊的に病んでいる病だということ。自分勝手で無責任で、移り気で飽きっぽく、何かに夢中になるとそればっかりこだわる性質を持った人間の集まりだということ。

 妻にも話をするが妻には理解しがたいところもたくさんある。とにかく酒を飲まないアルコール依存症者というのは奇妙な生き物だと思う。自分もそうなんだが。悪くなると酷い。あっという間に考え方が元に戻る。だが霊的なプログラムを実践していると結構有能で使える人になる。

 何とかとはさみも・・・という感じだ。

 とにかく妻は2002年の9月に私が断酒を始めてから私とのコミュニケーションをよくとってくれるようになった。そして2004年に次男を産んでくれた。私はワーカホリックになったり、買い物依存になったり借金魔人になったりして去年の11月に一口バーボンを飲んでしまった。2005年の秋からAAプログラムからそれてしまっていたからなのだが・・・。

 けれども妻は今も私を信じてくれている。私は今休職しているけれども、私なりの回復の道へと努力しているということを認めてくれている。

 私は妻を愛している。そして重い障害を持つ長男とかわいい小僧の次男を。私が自分を大切にしたいのは自分を取り巻く人々がみんな素晴らしい人たちだからなんだと信じていられるから。

 妻にありがとう、長男にありがとう、次男にありがとう、そしてこの世界にありがとう。

妻への感謝

 9月23日は私たちの20年目の結婚記念日だった。私たちは式をあげる金もない貧乏人だったから、籍を入れればいいや、と思っていたのだが、職場の父母たちが「そんなんじゃダメ」と言って、当時の職場があった団地の集会室で式と披露宴を行うことになった。
 父母の職業は様々で、インテリアショップに勤めているお母さんがどこからか赤いじゅうたんを持ってきた。デザイナーのお父さんが白いタキシードを、そして保育士だったお母さんたちは壁面を飾ってくれた。もちろん子どもたちも同席。普段ぼろっちいかっこをして保育をしている二人がタキシードとウェディングドレスで現れたのには度肝を抜かれたらしい。女の子たちは妻の周りで「きれ~い」とはしゃぎまくり、男の子たちは口では化粧をしている妻に(仕事中は素ッピン)「気持ちわり~」と悪態をつきつつも照れていた。私にも「にあわね~」といっていたがみんなで歌を歌い、私たちは誓いの言葉を述べ、誓いのキスをした。一人のお母さんが記入済みの婚姻届をすぐ近くの区役所に届け、報告してどよめきの中で式が終わり、披露宴になった。私の母は出席してくれたが兄は出席しなかった。

 二人の新婚旅行は国内の山めぐり。でも折からの不安定なお天気で私は途中で体調を崩してしまった。新居も最初の数年は二人だけでマンションを借りて生活した。
 ドラクエを深夜までやって「結婚するってこういうことなの?」と怒りを爆発させられたこともあったし、部屋中粉だらけにして二人でピザを作ったりもした。

 私は少し当惑していた気持ちもあった。なんだか人生のレールが引かれてしまったような違和感みたいなものを感じていた。
 けれど妻はしっかりもので、私を上手にリードして生活のあり方を教えてくれた。でも私はその頃から飲んだくれで、たくさん迷惑をかけた。トイレと間違えて玄関で小便をしたり、どうしようもない甘えんぼでもあった。

 結婚して2年、マンションの契約更新料を支払うのがバカらしいから、妻の両親の家を二世帯住宅に建て直して同居することにした。

 妻は狭い敷地でいかに効率的で収納力のある家にするか設計に夢中になった。私はまだなんとなく妻の両親との同居に乗り気になれなかったのだが、妻の方針に逆らう気持ちにはならなかった。妻の判断は大抵正しい。家賃を払い続けるよりローンを払い続ける方が合理的だということは理性的にも理解できていたからだ。

 二世帯住宅が完成して、同居が始まり、妻が身ごもった。職場で始めての産休を実現するために社会保険への加入を求め認められた。そしてラマーズ法での立ち会い出産を希望したので二人で親学級に通い、呼吸法の練習もしていた。
 だが、どうも私の酒は改善されなかった。つい飲みすぎる。陣痛が来た時も私は飲みすぎていて事態がよくわからなかった。病院までタクシーで1時間の道を酒臭い息で「ひっひっふ~」と一緒にやっていた。いよいよ出産。妻の頭のところにいて声をかけ呼吸法をやるのだが、足元にコンセントがあって、私は二回コンセントを蹴飛ばして抜いてしまった。足元が怪しかったのだ。それで「退場」
 長男が生まれた。このとき誰がその後の長男を襲う病気を予想していただろうか?生まれたときは普通の赤ちゃんだった。私は躊躇無く大好きな山の名前をつけた。

 長男が6ヶ月検診で発達の遅れを指摘され、そして一歳のお誕生の一週間前にてんかん発作が始まった。「点灯てんかん」乳幼児のてんかんでは予後不良ケースが多い悪質なてんかん発作の一つだった。母子分離で入院させられ、夫婦で泣いた。医師は「この子はもう笑顔を取り戻すことはないかもしれません」と宣告してきた。
 妻はなんとしても長男のてんかん発作を治すということを決意して母子で入院ACTHという副腎皮質ホルモン分泌促進剤の投与では長男は頭痛がひどいのか全く眠らなくなった。一週間で数時間の睡眠。抱っこして暗い夜の病院の階段を上り下りする時だけうとうとする。ベッドに下ろすと起きて泣き出す。4人部屋(赤ちゃん四人+付き添い)で劣悪な環境だった。冬だったのでヒーターのパイプからわけのわからない「かん・こん・かん・こん」と大きな音がして神経を尖らせていた。一月半の入院で一旦発作はおさまったが、つかのま、また再発した。今度は下調べを十分にして静岡の国立専門病院に入院することにした。妻の退職金などすずめの涙。発症前に長男に子ども保険をかけていたので入院費用に困ることはなかったが、一ヶ月のうち半月の入院、半月の帰宅という不規則な生活の中、私は家の中での居場所が弱くなって酒が増えていった。
 妻と子どもが静岡から帰ってくるという日にも私は二日酔いで迎えにもいかなかった。この頃から私は自分のことばかりを考えるようになりがちになっていた。長男のことばかりで精一杯の妻、それなのに自分のこともかまって欲しかった。自分は妻を支えるのではなく、妻に甘えたいという気分だった。「長男のことばかりで俺はどうでもいいのか」・・・今から思うと恥ずかしい。自分は一家を背負って立つ「父親」でもなければ疲れきった妻をいたわり支える「夫」でもなかった。ただ長男が妻を独り占めにしていることにふてくされている図体だけでかいただの「餓鬼」でしかなかった。

 続きは明日

2008年9月24日水曜日

アルコール依存症という病気

 「アルコール依存症」という病名から連想されるのは、朝から晩まで酒を飲み続け、借金をして、家族を傷つけ、何もかもこわし、最後には自分の身体も壊して死んでいくというもの。実際そうなんだけどね。私の飲み方は案外違っていた。朝酒は飲まなかった。昼間も、仕事中も酒は飲まなかった。けれども夜8時を過ぎるとウィスキーやウォッカ、ラム、テキーラなど強い酒ををストレートでぐいぐい飲んでブラックアウト(気絶)するまで飲んでいた。つまり私にとって酒はコミュニケーションを円滑にするためのものではなく、自分を眠らせるための薬物だった。
 ある医療関係者が言っていた。「アルコールが、もしも20世紀に発見されていたなら、ヘロインやモルヒネのようにみなされ、非合法的な医療関係者にしか使用が認められない化学物質としてみなされていただろう」と。だが、アルコールは人間が文化を作り始めた頃から身近なところにある手軽な飲み物として存在している。そして多数者はこれを上手に使ってコミュニケーションを円滑にする「道具」としている。「アルコール依存症」になる人は、まず体質的にアルコールに強く反応する。アルコールによる「酔い」の感覚の快感が他者に比べて強い。そしていろんな事情(生育歴、体験的なトラウマ、性格的な弱さ)などから現実のすさまじさを直視しきれない。実際は多数の人が現実のすさまじさの中で自分の居場所を作り、自分の能力と折り合う生活を見出していく能力を持っているのに、この病気になる人は様々な弱さが絡み合って、すさまじさの方にばかり目が行ってしまって、自分の居場所を作ることができない(作りきれない)し、自分の能力を過大評価するか過小評価してしまい現実との折り合いがなかなかできない。そのため、酒の酔いの妄想の中に自分を求め、時には酔いに任せて暴力的になり、あるいは引きこもってしまう。どちらに進んでも社会からは孤立を深めていく。特に自分の身近な人に強い共感を求めるあまり(依存)その共感が得られないとなると攻撃的になったり自己否定感を強く感じてしまったりする。

 回復には「断酒」すること。これがスタートライン。そして断酒したまま自分が壊してきたもの、家庭・仕事・金銭感覚・社会との折り合いを再建していくことに取り組んでいく。普通の人が普通に生きるという日々の生活が、我々にとっては非常に多くの苦痛や退屈を感じさせる。普通の人とはビジネスライクな付き合いはできても、それ以上の感情的な共感というものまで感じるのはなかなか難しい。そこで自助グループが必要になる。同じ病気で同じ気質のもの同士、同じ生きづらさを抱えているもの同士で自分の生きづらさを吐き出しあって自分を軽くしていく。

 AAの12ステップはきわめて有効なもの。自分というわけのわからないものに思い煩っているから生きづらさを増していってしまう。だから自分を「神」に預けてしまい、自分を「道具」にする。それには自分の過去どうであったか、何が起きて、今どうなっているか、を明らかにして、自分を生活する道具として、今苦しんでいるアルコール依存症者の手助けをすることができるという一点において価値を見出していく。仕事は「生活していく糧を得るための道具」でありそれ以上でもそれ以下でもない。家族は自分に与えられた財産。そして自分は単に神に与えられた役割りを果たすためにこの世に送り出されてきた一人の人間でしかない。思い悩むのはやめて、実務的に生き、喜びながら生きればそれでいい。

 ただ、未だにこの病気は多くの誤解を受け、「精神異常者」とみなされ、「汚らわしいもの」扱いされているのも事実。糖尿病の人がインシュリンが手放せないように、心臓病の人がペースメーカーを手放せないように、足が悪い人が杖を手放せないように、私たちは自助グループを手放せない。それだけなんだけどな。

2008年9月18日木曜日

借金と取り組む

 どうしても自分には怯えや恐れが出てきてしまう。これはやはり、事実をきちんと事実として受け止めてその結果に責任を持つという姿勢が弱いからなんだろう。
 3年ほど前まではこれができていたのだが、その後できなくなっていった。目の前の問題から目をそらしてごまかしてきた自分・・・その結果がこの借金という事実として突きつけられている。言い訳したい気持ち、逃げたい気持ち、安易な方向に行きたい気持ち、いろんな気持ちが次々に出てくる。だが、ここで逃げればまた新たな問題を作り出すだけ。だから正面から取り組まないと・・・。

 家計に影響を及ぼさずに自分の力でできる限りのことに取り組む。ここからでないと何も始まらない。「解決はない」になってしまう。解決するためには自分ができることを精一杯やってこそのものだ。

 本当にわかっていない自分だ。

2008年9月15日月曜日

恐れ・不安・・・脅かされているもの

 自分の心の中をのぞく。職場についての総括は大分できてきたと思うのだが、妻に対する借金の問題での総括がしきれていない。
 問題は単純だ。自分がAAに行かなくなったことが一番の原因。しかし、行かなくなった理由の中に妻に対する恨みが多少なりともあるのは事実。妻に「夜のAAを減らしてくれ」と言われたことがきっかけではある。だが、それはどういうことだったのだろう?
 この病気は「忘れる病気」自分自身も多少生活が軌道に乗ると忘れていくし、家族も忘れていく。職場も忘れていく。自分では「忘れてはいけない」と思っていたのに、妻の一言から行くことが少なくなり、疎外感を感じるようになり、行かなくなっていった。
 12ステップのプログラムをもてあそんでいたようなところもある。

 「インスタント回復はない」

 本当にそうだ。足で歩いてつながり続ける。この継続が仲間からの信用につながる。仲間からも信用されないようでは、健常者から信用されるはずもない。

 ここから悪循環スパイラルが始まっていく。

2008年9月12日金曜日

復職に向けた心の状態

 心の状態は、やっぱり落ち着きが十分でない。とにかく手紙は出した。妻の助言をもらって書き直したら施設長から驚かれたほどのものだった。やはり妻の考え方というものは健全なんだ。なんでこんなに健全なんだろう?私が書いたのは確かに自分の側の都合・言い訳ばかりで相手の気持ちを思いやるという心の広さも柔らかさもない。自分としてはとにかく「シンプルに」というつもりで書いたのだが、妻に言わせれば「相手が知りたいことが書いてない」とのこと。
 カチーンときて口げんか、でも妻の言い分が正しいことはわかっているんだが・・・。「この程度のことであんなにイライラするんじゃ、当の相手にあったらもっとイライラして口走っちゃうんじゃない?」と言われた。ごもっとも。正直言って自信はない。
 けれども医師は19日の受診で診断書と復職許可、意見書を書くという。施設長はもうあと数ヶ月やった方がより強くなれるし安全だと言っている。だが、通常は医師の意見が重視されてしまう。どうしたものか・・・。
 それに結局は金の問題・・・月収25万か傷病給付19万か・・6万の違いが大きい。考えようによってはたった6万の違いでしかないのだが。

 この8年間の年間収入を出してみたら昨年でようやく6年前の水準に戻ったばかり。そこでこの休職。痛い。本当に痛い。

 厚生年金、社会保険料の値上げも痛い。

 復職を前にして心が揺れているのである。

2008年9月11日木曜日

埋め合わせ

 理由はともあれ、自分が起こした問題の責任は自分で引き受けなければならない。仕事の上で他の職員に迷惑をかけてしまったこと、借金を作って家計に大きな穴を開けてしまったこと、これらは何を言っても事実として受け入れていかなければ・・・。

 実際のところ昨年の末から今年の春ごろまでに自分は何をやっていたのだろう?仕事ではモチベーションが保てず去年の今頃は蓄膿症と歯周病で倒れてしまったり、その後助成金の書類を書くことで自分の仕事はしているという外見を作っていても内容的には職場の信頼をなくすようなことをしたり、どうしようもない閉塞感の中にいた。「保育」に取り組めなくなって、実務の処理に追われて時間の無駄遣いをして、自分のカラの中に閉じこもって仕事になっていなかった。

 家庭においては自分なりの責任は果たしてはいたのだが、一方で妻に隠れて借金を作り、それが膨らんでいく中で自分でもどうしようもない気分に自分で追い込んでいた。

 昨日の朝も職場への手紙を書くということ一つで、妻に八つ当たりをして、自己嫌悪になった。

 なんで妻はいつも「まとも」なんだ!俺は自分を「フツー」に保つということだけでもすごいエネルギーを要しているのに・・・。

 こんなことで苦しんでいるってことは、同じ病気の人間にしか共感は得られないだろうな。自助Gで吐き出しているとたくさんの共感があふれてうれしくなるよ。壊れている人間の壊れ方なりに生きていかないと・・・。埋め合わせをしながら、生きるということになれていかないとダメなんだな。

2008年9月10日水曜日

自分の弱さを突き詰めれば

 スポンサーにも医師にも指摘されたことだが、自分のもっとも弱いところは責任の境界線が上手に引くことができないこと。健常者は「ここまでは自分の責任」「この先は他人の責任」と明確に線引きをする。仕事や責任ががたくさん覆いかぶさってきた時にも、それを整理して「自分が手を出すのはここまでで後は他人に任せる」ということができるのだが、私はそういうところが下手だしわからなくなることがしばしば。

 今回の休職に至った経緯でも兄との問題で実家との距離がうまく取れず変に責任を背負い込もうとしたり、今の自分ではできないことをやらなくてはならない・・・と思い込んでしまって身動きが取れなくなっていったことが大本。
 仕事での自分の責任範囲が次第に広がっていったことでも、境界線が引けないために何もかも背負い込んで「ねばならない」という意識にとらわれて結局は背負い込むことも投げ出すことも、他者に押し付けることもできなくて自滅した。

 自分と他人との境界線がうまく引けないというのは自己評価の低さと背中合わせの自分の能力への過大評価という両極端な感覚があるからだろう。ここのところで自分の現実の能力をあるがままに見つめて「できることだけに絞り込む」という作業が必要なんだろうな。それをすると「その程度の能力なのか」と思われることを恐れているから背負い込んでしまうんだ。
 
 自分に自信を持っていいのか、どうなのか・・もわからない。本当に淡々と仕事をしている人がうらやましいと感じる。

2008年9月8日月曜日

兄を赦す

 突然訪れた気づきだった。兄もまた悩み苦しんでアルコホーリクになったのだ!という思い。

 突然、今までのすべてを赦したいという気持ちに襲われた。

 神様、彼の苦しみを取り除いてください。そして彼の心に平安が訪れますように。と祈ることが自然にできる気持ちになれた。

 ただ7日のミーティングで自分の心の崩れを仲間の中に卸したあとのことだった。兄のアルコホーリクを赦せない自分は何者なのか、彼の破壊性を感じながら、いろんなものを破壊してきた自分を棚上げしているだけではないか。

 私はたまたま運が良かっただけ、良い妻と重度障害の長男と優れた医師と素敵なAAグループに出会うことができてプログラムにつながることができた。これは私の人格や優秀性によるものではない。私が運が良かっただけだったのだ。兄が私を守る防波堤になっていてくれたから、私はこの程度で12ステップにめぐり合うことができたのだ。
 兄の心の闇は私の闇より深いのだろう。父を最後まで看取り、母のイネイブラに苛まされながらも最後は何とか自分で仕事を見つけて生きようとしてきたが、その時には、もう心も身体も壊されていたのだ。私にできることは、兄のために祈ること、そして12ステッププログラムを届けることだろう。

 自分の心の落ち着きがようやく訪れてきたようだ。

2008年9月6日土曜日

飲酒欲求?

 昨日は病院の通院日。妻も一緒に医師と話をした。私の言い分、妻の言い分、それぞれ聞きながら、結果としては今月末で休職期間を終えるべきでしょう。長引かせればそれだけ良くなるというものでもないですから・・・ということになった。

 家計の管理についてはまた妻ときっちり話し合っていかなければならないことなのだが、自分の問題は自分で自助Gを使いながら解決していくこと。

 ところが、そういう重苦しいものを抱えるととたんにでてくるのが「イラつき」そして「飲酒欲求」のような変な気分。酒で酔いたいわけじゃない(今更普通に酔えるわけじゃないことはわかってるし)、でもどこか「自分の空間」に逃げ込んでしまいたいという思いが出てくる。こういうのがニョキニョキ出て来るとよろしくない。もぐらたたきじゃないけど、自分のこういう発想が出てきたらとにかく叩く。そして甘いものなどをたらふく食べてなだめる。

 被害が一番少ないところで収めていくというのも生活の知恵なんだ。

2008年9月3日水曜日

行動を始める

 まずは職場に手紙を書くということに取り組み始めた。必要以上に自分を卑下することも無く、そして尊大になることもなく、ただ自分の現状や休職期間に取り組んできたこと、そして医師からの診断書が出されることなど。

 もちろん、まずは自分で読み返しながらどこに問題点があるのか、書き方に変なところは無いかチェックしないといけない。

 アルコホーリクにとっては手紙一つを書くということもとても難しいことなんだと思う。卑下すれば不利になる尊大になるとはねつけられる、どう書けば受け入れられやすいのか、できるだけシンプルに・・・
ああ難しい。

2008年9月1日月曜日

不眠と苛立ち

 わかっちゃいるんだ。自分が休職していられる期間があと一ヶ月ってことになって、またもや頭の中で不安や恐れがもたげてきているってこと。「復職できるのだろうか」「受け入れてもらえるだろうか」「仕事ができるのだろうか」「退職勧告をされるのではないか・・・」

 どれも自分の心の中での思い込み、妄想。実際に復職の意向を相手に示して相手側がどう話をしてくるのかがわからなければどうにもならないことなんだよ。

 だけど夜、暗くなって床に就くとこういう妄想が襲ってくる。

 神様、私の恐れを取り除いてください。そして私に不当なことをした人たちに心の平和が訪れますように。私が再び一人の職員として働けるかどうかは、私の問題です。私が本当に働きたければ、そして誠実に心からの反省を示すことができれば仕事を続けることはできるでしょう。私にあなたの意志を行っていく強さをお与えください。

 

 

2008年8月31日日曜日

朝の苛立ち

 ここ数日、朝なんでもないことをきっかけに苛立ちを感じている。原因ははっきりわかっている。来月の銀行口座からの引き落としが落とせるかどうかという不安によるものだ。
 一方では弁護士のアドバイスで、払えないものは払えないと言って利子を免除してもらうとかローン会社にお願いするという方法があるということに従おうという気持ちもあるのだが、一方ではやはり銀行との信用関係を崩したくないという自分の気持ちがあるし、自分の借金を返済することは社会人として当たり前のことだからと思う気持ちが出てくる。

 結局ネットオークションなどでこれまで意味無くそのときの気持ちのままに購入してきたまま使わないでいたものを処分して何とか支払おうとしている。

 結局は自分にとって有利になるよう立ち回っているんだけどね。でもまぁ、無駄なものを処分するのは、それ自体はいいことだとも思っている。必要なら必要なときがくれば与えてくれるだろう。

 自分に出来ることを精一杯努力していって、それでもどうにもならなくなったら、そのときは仕方ないとも思っている。ただ、妻からはこの借金については一切家計からは出さないと宣言されている。それも当然なんだけどね。私のおこづかいは週3000円。タバコを止めればその内2000円は残せるんだけど、今はまだ禁煙というストレスを自分に加えたくない。過去に半年ほど禁煙できたんだけど、結局これも実家とのトラブルをきっかけに崩れたからなぁ。

 とにかく今後は実家との関係を一切自分のほうからは絶つこと、実家の方から来ても事務的に処理するということに徹すること、感情的なものがこみ上げてきたらミーティングで卸すこと、この鉄則を忘れないようにしないとまた崩れる。彼らはもはや私とはなんの関係も無い他人である・・・そう思わなければどうにもやりきれない思いばかりになってしまうから。不安材料は兄を介護している母が倒れたら・・・ということ。でも私は絶対兄は引き取らない。それだけはしっかりしておかないと自分が壊される。
 彼自身も「犠牲者」であるということはわかっているが、彼は破壊的過ぎる。

2008年8月30日土曜日

休職中のこと その2

 この休職中に私は大きな体験をさせてもらった。自分の人生にとって、恐らく非常に大切な経験だったと思う。それは、「中間施設」というところに通わせてもらえたこと。
 休職して家の中のお掃除などが終ったところで、さて次は何をしようか・・・と考えていたとき、まず最初は何か資格を取る勉強でもしようか・・・と考えて通信教育関係の資料を集めた。社会福祉士、介護士、行政書士、などなど・・・でも自分の中の問題に気付いていなかった時だったので、どうしても動機がマイナス思考にはまりがちになっていた。
 そんな時にホームグループの先行く仲間から「中間施設に行ってみたらどうか」という提案を受けた。最初は自分のプライドが拒絶反応を示した、「そんな行政の生活保護を受けているやつらと一緒にミーティングしたってなんになるんだ・・・」と。
 だが、ちょっと考え直した。「そういう自分は何者なんだよ」結局アル中で仕事の中で生きづらくなって休職している状態じゃない。
 先行く仲間から、スリップした仲間にとっては中間施設で徹底的に最初からプログラムをやることが一番の早道なものなんだ・・・と。
 とにかく職場の人間関係での恨みや怒りで狂って苦しんでいた私は、とにかく先行く仲間の提案に従って見ることにした。

 初日の面接で所長からずばりと言われたのは、「ソーバーの長さに対して決定的にミーティングの参加量が少ない」ということ。これはその通りだった。そして自分の問題(借金のこと、職場のことなど)を話した。「まぁ今日から通ってとにかくやってごらん」ということだった。

 ミーティングでは自分なりの内面を吐き出し続けた。最初の内は職場の人間関係での問題と自分の借金の問題でのことばかりだった。他のメンバーは生活保護を受けている仲間がほとんど。仕事も家庭もなくしている人たちばっかり・・・でも次第に、この一人一人がそれぞれに人生で輝いていた時期もあり、それが酒での問題から転落してきた結果、何もかもなくしてしまったけれども、そこから這い上がっていくんだという意気込みの強さを感じるようになった。私にはこういう意気込みは欠けていた。甘かった。アルコールを嘗めていたし、アルコールが脳にもたらした被害についても甘かったことを思い知らされた。そして彼らから見れば、妻も仕事もありながらどうしようもないことをして借金だらけになっている私はかなり重傷者であると思われていることもわかった。

 自分は軽症だと思っていたけれども、それは単にたまたま運がよく、仕事での融通が利いていたからであって、実際には25・6で底をついていた重症なアルコール依存症だった。
 考え方のゆがみも彼らと私とでほとんど違いは無かった。

 私の運のよさは、A)妻が健康な心の持ち主だったこと B)長男が重度の知的障害児だったこと C)仕事での融通が利いて自由だったから自分なりの努力でどうにかごまかしが利いていたこと。
 そして決定的には私がアルコールを手放してから次男を授かったこと。

 ミーティングで自分のことをはき続けているうちに、自分の内面に変化がおきていった。その1でも書いたように、自分の問題の根源が見えてきたということ、そしてその問題に対するアプローチが決定的に間違っていたことを認識したことだ。

 中間施設のルールは厳しいものでもあるが、自分にとっては楽しいものでもある。どの仲間の話もすべて自分の問題と重なってくるし、自分の話を受け止めてくれている。「なるほど、このプログラムを徹底的にやっていけば、どんな重症なアルコール依存症者でも回復できる」と確信しできた。もちろんドロップアウトもある。しかし別名「アル中の最後の砦」と呼ばれているこの施設はドロップアウトするということは=再飲酒、死に至る道に戻るということでもある。

 この病気を抱えて生き続けるということは、いつも死への道と隣り合わせであるということを忘れないでミーティングに通い続けるということをおいて他にはない。「酒を飲めば死ぬ」「死にたくなければ飲まないこと」「しかし『忘れる』病気」。特にちょっと成功したり大きな衝撃を受けたりすると大きく揺さぶられる。自分の状態を毎日チェックしてプログラムを繰り返し繰り返しやり続けること。他には何もない。

 「自分たちはノーマルな人たちと比べて考え方も価値観も歪みやすい」ということを常に心の中でしっかりとつかみながら生きなければならない。こう書くととてもつらい厳しい人生のようだが、それほどのものでもない。なぜなら私たちには「仲間」がいる。AAの仲間ほど素晴らしいものは無い。そこには本当の平等と民主主義がある。プログラムから外れていけば死ぬけれどもプログラムにしたがっていけば天寿をまっとうできる。

 自分に与えられたもの、この人生をどのように生きるか、それは私たちがプログラムに沿って生きることによって実際に生きて示すしかない。

 神様、私におあたえください。
 私に変えられないものを受け入れる落ち着きを
 変えられるものを変えていく勇気を
 そして二つのものを見分ける賢さを
 私の意志ではなく、あなたの意志が行われますように。

2008年8月29日金曜日

「今日一日」One Day at a time

 自分にできることは「今日一日」ということだけ。もちろん「予定を入れない」ということではない。どんな今後の「予定」があったとしても、できるのは「今、この瞬間をどう生きるか」ということだけだということ。
 「今日一日」は朝起きてから夜眠るまでの生かされている時間をどうすればもっとも有意義で楽しいものにできるかということ。時には休息も必要だし、目一杯働くことも必要だろうけれども、それはすべて自分次第で変わっていくもの。無駄な時間を増やせばその分やらなければならないことにかけられる時間は減っていく。けれども自分には「無駄」と思える時間が必要なときもある。
 自分勝手に判断しない・・・私の意志ではなく、神の意志が行われますように・・・と。

 私という無力でちっぽけな人間にできることはわずかなことでしかない。せめて人の役に立つ生き方をしていきたいもの・・・と思いつつ、いろんな矛盾に悩んでしまう弱さを抱えているのである。その弱さを受け入れつつ、精一杯生きる。

 今日この日をどういう一日にするのか・・・それを選ぶのは「私」なのだから。
 

2008年8月26日火曜日

休職中のこと その1

 5月19日から仕事の休暇に入り、6月1日から休職の扱いとなったのだが、その間の自分の変化を時間を追って説明していくと次のようになる。

 第一期 5月19日~21日
 第二期 5月21日~6月10日
 第三期 6月11日~7月10日
 第四期 7月11日~8月10日
 第五期 8月11日~8月22日
 第六期 8月23日~・・・

 第一期は自分が壊れていることを自覚して自助Gに戻るまでの葛藤の時間。この過程で大切な役割りを果たしたのが11月のアルコールのスリップの事実だった。
 自分が「アルコール依存症であるということを忘れないように、また、思い出させるためのスリップだった。神様が飲ませてくれた(今のところ)「最後の一口」だったのだと思う。
 それにしても、たった数日とはいえ、苦しい日々だった。自分が休職したことを他の理事によって「休職に追い込まれた」と錯誤していたこと、労働者の雇用についての知識がない理事長の「解雇するしかないか」という発言を真に受けたこと。恨みや怒りに狂っていた自分をどうにかしなければならないと思って自助Gのミーティングに行くことにした。そこで解決の方法が見つかるとは思っていなかったけれども、そこに行くしか他の方法がわからなかったからだ。

 第二期は自助Gにつながりなおすことができて、改めてOne Day Medalをもらって暖かく迎え入れてくれた仲間たちに感謝したこと。仲間とはこんなにありがたいものか・・・と最初につながったときにはわからなかった気持ちを感じることができた。これもスリップのお陰と思えば、やはりあの一口のバーボンはなんという神の愛!しかも一口飲んだとたんに2002年8月までの自分の苦しさが頭によみがえり、あの暗闇には戻りたくない!!という恐怖が襲ってきて残りを全部トイレに流すことができたのも神の配慮としか思えない。
 でもまだこの頃は家の掃除を徹底的にやって自分をごまかしながら妻に内緒にしていた120万の借金のことや仕事での恨みや怒りでいっぱいで苦しかった。自分にはもはや解決はないと決め付けかけていた時期でもあった。

 第三期は先行く仲間の紹介で中間施設につながった時からの一ヶ月。施設の所長からアドバイスやサジェスチョンをいただいて、少し考えが整理でき始めると、今度は急に「自分は治った」と思い込んで職場への復帰を焦った時期でもある。
 これも通所施設の所長と主治医からいろんなサジェスチョンをいただいて、自分と職場との関係を考え直していく必要があるということに気づきをもらった。職場はあくまでも仕事の場、仕事は生活の目的ではなく手段であるに過ぎない・・・これも手放すかどうか、それは自分が一人で決められる問題ではないということ・・・他の人を巻き込む問題では自分勝手な「正義感」で結論を出してはいけないものなんだ。自分がいなくても職場は回る。自分がそこに残りたいと思っているのかどうか。そして職場の方は私に何を求めているのか、そこを明確にしていかないことには同じことを繰り返していくだろうと思った時期だった。

 第四期は自分が壊れていったきっかけを見出した時期だった。職場でのストレスが自分が壊れていった原因だと信じ込んでいたけれども、崩壊が始まった時期を見直していったら、兄の意識不明とその後のいろいろな実務処理が落ち着いた頃から始まっていたことだと思い当たった。
 自分にとってとにかく大きな障害は、兄と母の共依存関係と兄の尊大さ傲慢さへの嫌悪、そして極度の高血圧、糖尿、痛風を発病していながら飲み続けて借金だらけにして住宅ローンの焦げ付きを作って父が残した土地も売らなければならなくなったことへの怒り、恨み、憎しみ・・・その一方で自分はプログラムにつながって(ろくに進めてもいなかったのだが)いることの優位性を見せ付けたいという自分の傲慢さ、兄を見下したいという幼い頃から抱えていた自分の問題が大元だったことに気付いたということ。従って職場での問題も結局煎じ詰めれば私の兄に対する見方のブレから生じていた人間関係上の問題点(尊大になったり卑屈になったり、自己評価の低さ)が露骨に出た結果だったということがはっきりしてきた。
 つまり職場の人たちは私に「八つ当たり」をされていて、それに対して「仕返し」をしただけ。自分に出来るのは自分側を掃除することだけだということに気づきをもらった時期だった。

 第五期は、これらの結果として、休職期間の終わりが近づくに連れて噴出してきた「恐れ」「不安」と向き合わなければならない時期だった。自分の側に問題があったのだとはっきりした中では、やはり「職場復帰が認められるだろうか」という「恐れ」「不安」が出てくる。しかし、これは謝るしかないことだ。「自分の非を認めるべきところは認め、今後の仕事で認めていただくしかない」と開き直りきれない自分だった。しかし「神様、私の恐れを取り除いてください」と祈ることと、どうすることがもっとも他人を巻き込まないで行ける方法なのか、ということを自分に正直に、しかし、他人を巻き込まないように行動することなのか・・・を考え始めた時期だ。

 第六期はそれを具体化していく時期になる。医師・施設の所長から「お墨付き」をもらって「職場復帰」を果たしてくことと、同時にミーティングの確保を医療上の必須事項として認めてもらうこと。職場の方がどういう条件を出してくるかは相手の問題だから私が考えても仕方の無いことだものね。
 

2008年8月24日日曜日

結果として自分に起きたこと

 2005年の兄の脳内出血での意識不明、そして実家の後始末という出来事の後、自分はどうなったのか・・・。この出来事で奔走している間、私は自助Gから離れてしまっていた。家での仕事もあり、「時間が無い」と自分に言い訳をしていた。
 しかし、自分がソブラエティを維持すること以上に大切なことはあるのだろうか。私もアルコールにつかまった体と心を抱えているのだ。いつおかしい方向に行っても不思議ではない体と心なのに、そのことを忘れていた。ただ兄や母に対する怒りや恨み、でもそれは感じてはいけない感情だと抑え込み自分を抑圧していた。「ありのままの自分」を正直に認めるというソブラエティを維持するために必要な最低限のことができなくなっていた。

 特に奔走している間は何も考えずに動き回っていればよかったのだが、兄の容態や母の生活がある程度落ち着いてきたあたりから心の奥底から湧き出てくる感情を自分で抑圧してしまっていた。
 
 普通に考えてみれば、例えば自分が大腸癌で手術して治って、その後の経過を観察している状態にある人が、兄が脳腫瘍になったからと言って怒りを感じるだろうか?まぁ百歩譲って生活習慣病で自分が食事制限をしていて、兄が同病であることがわかっていながら同じように食事制限をしていないからといって怒るのか?
 
 アルコール依存症というのはとてもやっかいな病気で、まず罹患していても自分が「依存症」であるということを素直に認めるものではない。自分の場合も認めるまでには相当な時間がかかったことを思えば、兄の場合も私以上にプライドが高い人間なのだからそう簡単に認めるわけは無いではないか。

 怒っていたのだから素直に怒ればよかった。自助Gのミーティングで怒りを吐き出して吐き出しながら受け入れていけばよかったのだろう。だが私はそうしなかった。自分の怒りを抑圧して表面に出さないように蓋をしようともがいているうちに自分自身の精神状態を悪化させ、自分の病気を買い物依存などにスライドさせ、借金を必要以上に増やして結果としてイライラを募らせて自己崩壊に向けて進んでしまった。2007年の11月に私はバーボンを一口飲んでしまった。幸い「酔った」という心地よさを感じることも無く、連続飲酒にはまることもなく済んだのだが、これも私にとっては大きなダメージだった。
 
 「自分がスリップした」という事実を受け入れることはできたが、このときはなぜそうなったのかという原因の本質まで掘り下げることはできなかった。
 ただ仕事のストレスが大きすぎるという表面的な部分の受け止めだった。確かに仕事のストレスもあるが、でも2005年まではそれをこなしてきたのだから、どうにも納得できない。そこで自分は自分を追い込んだ「相手」を探して決め付けてしまった。

 結局は4ヶ月の休職、職場にも大きな迷惑をかけてしまった。

 でもこの4ヶ月、私は1からやり直すという作業で先行く仲間から紹介された中間施設に毎日通ってきた。そこでのミーティング漬けの中でここまでたどり着くことができた。
 私はもう自分のこの新たに手に入れたソブラエティを手放したくない。兄や母がどうなろうとも、自分にとっては「そのときの自分にできること」だけに集中することが一番大事だと痛感した。背伸びをしても無理、むしろ結果は悪くなるということだ。

 だからこそ、今日一日に集中、自分自身に集中、今目の前のことに集中、これだけを大切にしていくこと。それに尽きるのだと悟ったのだった。

続きその2(試練と苦しみ)

 私は断酒を開始してから実に充実した生活へと変化していた。2004年の5月には次男も生まれ、夫婦の関係もすばらしく改善され、仕事も順調だった。自助Gへの参加も安定していたが、妻からはもう少し回数を減らせないかと求められていた。自分としてはこのプログラムからもらった新しい生活を大切にしたいという気持ちと、妻にこれまで飲酒で迷惑をかけてきたことへの埋め合わせとで悩みを抱きつつミーティングへの参加回数を減らしていっていた。

 そんな2005年の10月、実家の母から職場に連絡が入った。「兄が倒れて意識不明になった、救急車で病院に運んだ」というものだった。とるものもとりあえず病院に向かった。
 兄は手術中だった。母の話では朝、仕事に行こうと準備しているときに倒れたとのこと。父の脳梗塞を経験しているので動かさないですぐに救急車を呼んだとのこと。
 手術が終わり兄はICUに運ばれた。医師から説明を受けた。「血圧が200を超えていて、高脂血症で糖尿病で、通風もあって、それで酒を飲んでいたんだから倒れるのが当たり前でしょう。一体どういう生活管理をしていいたんでしょうかねぇ。脳の右側に出血があり、とりあえずできることはやりました。でも意識が戻るかどうかはわかりません」とのこと。
 「そんなに血圧が高かったの?」と尋ねると「高血圧は前からだったもの、父親だって高血圧だったし、それに脂っこいものが好きだったからねぇ・・・」「そういう問題じゃなくて、それをなんでほっといたのってことなんだけど」「だって私が言ったって聞きやしないもの」「だけど医者に行くようには言わなかったの?」「だって自分の体でしょう、自分でどうするかは自分で決めるでしょう、いい大人なんだから」。

 母はいつもこれだ。無理やりにでも病院に行かせるようなことはしない。ただ本人に任せて結果自分が困るということが分かっていない。

 兄は某大手ハンバーガーチェーン店に就職して店長までしていたのだが、1996年ごろ「仕事がきつい」と言って退職し、またもや母の紹介で中華の冷凍食品会社に転職、営業を担当して母の援助もあってかなり羽振りがよくなっていた。この会社の社長と母が同級生だったというコネだったようだが。
 この仕事には5年ほど就いていたようだ。一時は年収が700万くらいになって、本人も相当プライドを満足させたようだ。そして1997年に父が建てた家を壊して3000万ほどかけて家を新築した。「兄らしい家」と言おうか、ドアがやたらとでかく、間取りもでかく、二人で(兄が結婚したとしても)暮らすには妙に空間が多い家だった。自慢の家だったので私も新築祝いに呼ばれたが、私は行かなかった。1998年ごろに初めて行ったのだが、広々とした自分の書斎、ウォーキングクローゼット(なんで必要なんだ?)など自慢していた。「こんな家に住みたいだろう、でもお前は住まわせてやらないよ」と言われたが、私には「私の家」があるから「別に、住みたいとは思わないよ。ここは兄貴の家だろ」と言っていた。実際うらやましいとも思わなかった。兄は兄、私は私だ。2002年に私が断酒をはじめてから訪ねたとき、状況は変わっていた。
 兄は高収入の就職先を解雇されていた。2000年ごろのことだったらしい。母の話で聞いただけだったからよくは分からない。言うことが聞くたびに微妙に変化しているから。
 最初は「兄ははめられたのだ」と言っていた。「兄の働いている店でトラブルが起きて、その責任を兄一人にかぶせられたのだ」と。次には「先代の社長(母の同級生)が亡くなって、役員の入れ替わりのとばっちりで解雇になった」と。いずれにしても「兄には責任がなく、他者に陥れられた」という基調は変わらない。だが私としては、兄が多くの収入を得ていた裏には何か問題があったのだろうと思っている。入社して1・2年で年収700万なんて普通はありえない。先代の社長にひいきにされていた分他の社員からは恨みを買っていたのだろうということは容易に推測できる。

 いずれにしても解雇されたという事実、そして兄は警備会社のパート社員になった。年収は450万の減収。普通はこういう事態になれば住宅ローンの返済について相談に行ったり対策を立てるものだ。しかし兄はやていなかった。毎月7万とボーナス時に20万の支払い。年収が大幅に減って払えるわけがない。ましてボーナスもなくなったのに・・・。

 おそらく兄はこの解雇の経過の中で何か大きな精神的ダメージを受けていたのだろうと思う。
 
 奇妙なのはもうひとつ。兄は家を建てた翌年に結婚をしている。子どもができて「できちゃった結婚」というやつなのだが、出産が終わると相手は家を出て行った。3ヶ月ほどの形式的な結婚。「結婚した」という知らせを受けて祝いをしにいったが嫁さんには会っていない。嫁さんに会ったのは一回あっただけだった。そして3ヵ月後に「離婚した」という知らせ。あまりの速さにびっくりした。そして子どもの養育費を支払うということで調停したらしい。

 さて、こういう流れの後、兄は2005年に倒れた。3ヶ月間意識不明が続いた。その間、母に頼まれて私は兄の書斎や荷物を全部ひっくり返して「生命保険」「住宅ローン」「その他の借金・請求書」「銀行の通帳」などなどいろいろな書類を調べ、兄の部屋の整理もした。
 出てきたものは、解約された生命保険証書・焦げ付きがある住宅ローンの請求書・カードローンの総額80万・固定資産税の滞納100万・残高がマイナスの預金通帳だった。机の引き出しからは兄が昔の友人に金を無心したらしい手紙の返信もあった。「前回の貸し金の返済がまだ終わってないのにまた貸してくれと言われても無理ってものだ」という内容。携帯電話にはスナックの女性らしき人何人もから、「またきてねぇ、待ってるよ~ん」「今度ドライブつれてってね~」なんてメールがいっぱい。そして兄の送信も調子のいい言葉ばかり。そして突然携帯に電話がかかってきてうっかり出たら、「あのぉあんたさぁキートンさん?」「いえ、兄は脳内出血で倒れまして、私は弟です」「弟さん?でもいいか、とにかくさぁ、つけ払ってよぉ、いいかげんたまってるんだからさぁ」「いや兄は無理ですから」「あ、そう」どうやら兄は収入が減ってからもそういう現実を直視できないままあちこちのスナックで飲み歩いていたようだ。
 兄の職場にも連絡を取って担当者に会った。「パートですからねぇ、退職金はないんです。これはお見舞いです」と1万円だけ。「お兄さん大変でしたねぇ、でも給料の前借もあるんですよ、でもこういうことですからそれは請求しませんから」「はぁ、すみませんでした」給与明細を調べた。手取りは多いときで17万、少ないときは13万、そのうえ確かに前借が毎月4・5万と記載されていた。

 兄の手術代、入院費用が約50万円。母が支払えない分は私が職場の父母から個人的に借金をして支払った。その後も急性期が過ぎたらその病院からは追い出され、リハビリ病院へ。また3ヶ月50万。
そしてもう一回また別のリハビリ病院へ3ヶ月50万。母の生活費は父の軍人恩給の遺族年金、そして母のパート収入で総額20万に満たない。不足分は借金で補うしかなかった。
 そして実家(兄の家)を処分してローンを片付けなくてはならない。それには荷物を全部片付けて母の引越し先を探し、とりあえず住処をみつけること。アパートは知り合いが見つけてくれた。家賃が7万。未納のローンの返済も7万、兄の入院費用と定期的に行くための交通費、兄の家を売るにしても買い手がつかなければ兄の生活保護も申請できない。兄の家の片づけをすべて終えて売れる状態になったのが2005年末。2006年の3月4月という家が売れやすい時期に期待したが、車の出入りが不便という点がネックで決まらず。結局売却できたのは2007年末。
 兄は2006年の12月から入院先から母のアパートに移った。意識はまだはっきりしないこともあり、特に過去のことについては「覚えてない」といい続ける。本当に覚えていないのか、忘れたいからそう言っているのかはわからない。ただのんびりとしている。リハビリは痛いから行きたくないなどと平気で言っている。
 兄の生活保護が支給されるようになったのが2008年2月から。それまで一体いくらの借金ができたのかということも本人は知らん顔。家の売却益は全部ローンの返済と固定資産税の支払いで消えた。
借金だけは残っている。

 2005年までスムーズに進んでいた私のソブラエティ生活はこの兄の脳内出血で大きく揺さぶられた。忙しく処分のために動いている間にはあまり感じなかったのだが、とりあえず一段落ついた2006年度末にどっと疲れが出た。自分では仕事での疲れだと思っていたが、本当はこの実家を襲ったトラブルへの対応で疲れたのが大きかったのだろう。
 そして2007年にはひどいストレスが身体症状にもなって表れてしまった。借金を重ねているうちに自分もおかしくなって買い物依存になったりして被害を膨らませてしまっていたことで自己嫌悪や実家の家族への嫌悪感、そしてそういう嫌悪感を感じる自分を許せない自分の感情的混乱。

 自分の中では2006年の秋にはひどい疲労感を訴えていた。そして2007年にはまた飲んでいたときに支配されていた自殺願望も現れてきてしまっていた。どこかに消えてしまいたいという思いでいっぱいになり、もう自分の精神状態をまともに保つどころではなかった。
 理性的には実家の問題は自分がいくらがんばっても解決できないのだから、きっちりとできることとできないことを見極めて線引きすればいいのだと分かってはいるのだが、感情の中では処理ができなくなっていた。

 私にはどうしても休職が必要だったんだと理解した。そしてこの休職はとても大きかった。自分の心の落ち着きを取り戻すという上でも、ソブライティーを取り戻すという意味でも。

 今、私にできることは職場復帰に向けて、自分の問題をきちんと明らかにすること。そして実家の問題は棚上げにして自分のことに集中することだと思う。

 時間はかかったが、有意義だった4ヶ月だ。

2008年8月23日土曜日

続きその1

 私は大学にストレートで合格した(第一志望ではなかったが)のを機会に家を出た。出たくてたまらない家だったから出ることができて本当にうれしかった。
 大学の入学金は親が出してくれたが学費は自分で奨学金や仕事をしながら稼いで支払っていた。そして、自分の考え方や行動の仕方が異常であるということに家を出て初めて直面した。

 まず一つは感情の出し方がわからないということ。小学校高学年から高校まで、自分の感情を表に出すということを封じていたので(出すと兄や母から責められた経験の蓄積なのか?)感情に蓋をするということが通常の状態で感情を表に出すには酒の力を借りなければできなくなっていた。
 だから表面上は常に穏やかさを装っていたが、内面ではいろんなことで傷ついていたし、そういう弱さを嫌っていた。一方で酒の力を借りると感情の蓋が全開になり、激発して暴力は振るわないが泣いたり叫んだり走り出したりしていた。

 次に「働いて金を稼ぐ」ということには非常に勤勉だった。一年目は夜10時から朝7時までのファミレスでのアルバイトで月15万稼いでいた。だがその金の使い方はわかっていなかった。欲しいものを買うためにためるということもできないし、必要最小限のお金を残して後は全部無駄遣いをしていた。
 
 このアルバイトを通して朝酒を飲んで帰るようになった。昼夜逆転での朝酒のみでは身体を壊す。
 心配してくれた先輩がもっと楽で効率的な仕事を紹介してくれて、そこで働き始めた。社会保険も完備されていたので、胸腺腫になったときも休職手当てで保険十割給付という当時の制度で気楽な入院生活ができた。

 勉強については好き嫌いが露骨で、「単位を取るのが難しい」といわれている講義では毎回出席して特Aの成績をもらうのだが、「出席さえしていれば取れる」という単位は落としている。このあたりは天邪鬼で「楽に取れる単位には価値がない」という考え方をしていた。

 小学校高学年から高校卒業まで、それぞれの学校の図書室の本は図鑑や辞典、理化学系のもの意外はほとんど読破していた。特に高校の時には一通り西洋思想、東洋思想の本を読みつくした。カントヘーゲル、ニーチェ、キェルケゴール、ショーペンハウエル、陽明学、墨子、韓非子、史記、十八史略・・・。こういう素地があったから大学の講義でもつまらない講義は出なかった。
 こういう考え方だから結局大学を卒業することはできなかった。

 このころの自分は、自分の力、能力を充分過信していた。かんたんに単位が取れる講義を選択して確実に単位を取っていくほかの学生を内心バカにしていたのだが、彼らにしてみれば私の方がはるかに大バカだと思っていたことだろう。

 さて、この大学に入って自分で自由になった気分でえらそうな議論を私がしている間に、実家はどうだったのだろう。父は二回目の脳梗塞で倒れ、半身不随が酷くなり、その介助は母と兄がやっていた。兄は某大手ハンバーガーチェーンに母の知人の紹介で就職し店長をしていたが、恐らく兄にしてみれば脳梗塞をしても酒を飲んで好き勝手に過ごしていた父の姿は腹立たしいものだったろうと思う。
 二回目の時はさすがにあきれていたのだろう。

 三回目の脳梗塞で倒れ、入院したときには母も兄も「あれだけ自分がやりたい放題してきたんだからもう仕方ない」と言っていたし(痛風が痛いといろいろ言うくせにトンカツを食べていたなどどうにも救いようの無い状態だったようだ)
 そして父の葬儀で私は泣いた。私は父が好きだったし父の人生を私なりに理解していたつもりだったのだが、母や兄の気持ちは違っていた。「なんであんな奴のために泣くんだ、バカ」と兄に言われた。「だって親父じゃないか」と言うと「あいつのためにどれだけ俺やお袋が泣かされたかお前にはわからないんだ」といわれた。確かにそうかもしれない。毎日一緒に暮らしていた母や兄にとっては大変なことがたくさんあったのだろう。それに腹違いの姉たちと同居しなければならなくなったのも元々は父の無責任さに原因がある。そしてそのことで最も苦しみや怒りや不愉快な思いを抱いたのは母と兄だったのだろう。18で家を出て、すき放題に一人で生活をしていた私は彼らにしてみれば一番「お気楽な極楽とんぼ」だと思っていたのかもしれない。確かにそれも一面正しい。しかし私に「家」に対する帰属意識を無くさせてきたのも母と兄だったということも事実だ。私が実家に帰るたびに兄は私と一緒に酒を飲みながら「お前はなんにもわかっちゃいない」といい続け、最後には「お前の顔なんか見たくないからけえれ」と捨て台詞をはいたのも兄だった。

 父の死で私はもう実家に帰る理由がなくなった。そこには何もなかった。自分の居場所も、ほっとできる空間も。いろんなものがとっちらかった荒れ果てた家で私は嫌悪感しか感じることができなかった。

 こうして私は実家との関係を最小限にとどめるようになった。

 私は学生時代にある女性と同棲したりもしたが、やはり私の酒で破綻した。だが、彼女との生活費を稼ぐために始めた学習塾のアルバイトで、私は自分のこれまでまったく知らなかった一面を見出した。
 高校生までは私は絶対に子どもを対象とする仕事にはつきたくないと思っていた。なんでそこにこだわったのかはわからないが、「子どもを対象にした仕事」というものはあまりに責任が重く絶対に自分には向いていないしできないと信じていた。ところが学習塾の仕事で中学生や小学生に関わってみると、私自身が彼らとのコミュニケーションの中で癒され、彼らを励ますことで自分に力がもらえるということを感じていた。特に荒れた中学生たちと関わると彼らの純粋な思いやそれを阻んでいる現実、そして彼らに結果としてハンデとなっている学力不足、本当に生きる力としての学力というものを身につけていくための援助をしていくということが自分にはとても大きな喜びや勇気を与えてくれたのだ。
 だが、まだこのころは自分の思考方法や行動パターンの問題には薄々は感じつつも自覚しようという努力をするところまでは至らなかった。たぶん、「生きる力」というものの本質がまだわかっていなかったのだと思う。
 そしてこの職場は、私にとっては同棲していた女性との関係でのこじれや矛盾を浮き彫りにして別れるという結果をもたらし、その痛手から私は酒に沈殿し、解雇という結果をもたらした。
 けれどもそういう痛手と共に、そこでは今の妻との出会いというものも得た。

 そして妻となる人の勧めで現在の職場へと移って行った。

 新しい職場は新鮮だった。そこには「学力をつけさせなければならない」という枠も無く、自分なりに考えて工夫して子どもたちと一緒に生活のありようを作っていくという自由があった。そして妻との結婚を職場の父母たちがみんなで祝福してくれた。
 私と妻は私が酒を飲みすぎるという問題はあったが、随分二人で楽しい時間を共にした。

 その後この職場で現在まで20年以上働いているのだが、何度も職場の危機的な状況はあった。けれども多くの父母の協力もあってその度に乗り越えてくることができた。
 自分の酒は2002年9月2日まで止まらなかったが、職場で仕事中に酒に手を出したことはないし、酒での失敗も自分ではできるかぎりしないように努力した。いわゆる「つらすぎるくらいつらい努力」をし続けたというわけだ。なぜ2002年に酒を止める決意ができたのか、それは職場の施設の移転問題が発生し、居座るか移転するか、その財源は・・・という問題に直面して5月から8月までほとんど毎日仕事が終ってから、夜8時を過ぎると一人で記憶が途切れるまでバーボンをストレートで飲み続けて体が完全にギブアップをしたからとしか言いようが無い。9月3日に精神科に受診して(不眠・抑鬱症状が理由)「アルコール依存症」と宣告され、酒を止めて生きるか、酒にしがみついてぼろきれのように死ぬか」という選択を迫られ、私は生きる方を選んだということだ。

 結婚生活の20年の間にもいろいろあった。生まれてきた長男が一歳の誕生日直前に点灯てんかんを発症し、重度の知的障害児となったこと。それによって妻が退職し、長男の入院に付き添い実質妻の実家で孤独になったこと。けれどもこういうことはすべていいわけになる。それに妻の名誉にも関わることだからすべてを書くことはできない。

 だが酒を止めてから私には信じられない喜びがもたらされたことは事実だ。酒を止めることは意外と簡単だが、それを続けることはとても難しい。でも自助Gにつながって12ステップのプログラムにつながって自分の内面が変化してきたことは事実だ。まさにミラクルとしか言いようが無い。それほどこのプログラムには効果がある。

 だが、2005年10月に自分を試される試練が勃発した。

 この続きはまた明日。
 

2008年8月22日金曜日

自分が抑鬱症状に至ったわけ

 私は年度の切り替わりの辺りからひどい精神状況になり、結局5月半ばから休職せざるを得ないほどの抑鬱状態になってしまった。
 当初は仕事のストレスが原因?と思っていたのだが、この休職期間中にしっかり内観療法(ミーティング形式で行われる12ステッププログラム)に取り組むことができて自分のストレスの大本にたどり着くことができた。

 もちろん仕事でのストレスもあったのだが、それはむしろ自分で作り出していたという側面も多く、そういう問題を作り出してしまうような自分になってしまった大本は違うところにあった。

 「実家」というものは多くの人にとっては心の安らぐ癒しの場であるのだろうが、私にとっては「できることなら関わりたくない場」だった。理由は長くなる。少しずつ書いていくしかないだろう。

 まず私の成育歴
 私は3歳の時に埼玉の浦和に引っ越した。父が土地を買い、一戸建てを建てたからだ。間取りは一階が10畳のリビングと四畳半の和室、それにつながる変形四畳半の納戸のような北側の部屋、それに風呂と当時としてはめずらしい「対面式キッチン」。二階が10畳の和室・洋室半々の部屋と8畳の父母の寝室兼書斎?(実質父親の一人で酒を飲む部屋)。
 間取りから見ても建て始めた時は父母と私と兄の四人家族での生活を前提としていたとしか思えない。しかし母にとっても父にとってもそして兄にとっても思いがけないことが起きた。(父にとっては本来思いがけないということであってはいけないものであったと思うのだが)
 父には先妻との間に四人の娘があり、その先妻が結核で療養所での隔離生活となっていてこの四人の娘も一番上の姉は母親から結核をうつされ、療養所に、そして下の三人は児童養護施設に引き取られていた。しかし先妻が結核で亡くなってしまった。そして児童養護施設では認知している父のところに事情を聞きに来て、新しい一戸建ての家を建てるのであれば当然娘たちを引き取って育てるように指示を出した。

 母としては姉夫婦が小さな建売住宅で暮らしているすぐそばで、当時としてはモダンな自由設計での一戸建ての新築の家で夫婦と二人の息子の四人で優雅に暮らして自慢するという夢を描いていたのだろう。けれども、こうした夢は突然思春期に入った血のつながっていない三人の娘を引き取って育てなければならないという現実に直面した。当然多くの夫婦喧嘩が起きた。夢の新築一戸建ては「突然襲ってきた」「敵の娘」の「乱入」によって資金計画の変更、設計の一部変更を余儀なくされた。

 引き取ることには承諾したものの、生活は大きく変化した。優雅な四人家族から七人家族になり、実子である私と兄は予定通り二階の十畳を与えられ、私たち(当時私が3歳、兄が小1)よりはるかに年齢が上の姉たち(当時中二・中一・小5)は一階の四畳半と納戸のような部屋に押し込められた。
 まだ無邪気だった私は新しく「家族」になった「姉」たちのことをすぐに好きになり、「姉」たちも私のことをかわいがってくれた。しかし母と兄の心中は穏やかではなかった。母は二言目には「ボロボロの服で乞食みたいな格好をしてんのを引き取って服を買ってやって・・・」と愚痴をこぼす。姉たちの母親に対しては嫉妬もあったのだろうがぼろくその差別用語を使ってこき下ろしていた。
 そして私はそういう母の言葉を聴く相手はいつも兄だった。兄にしても、それまで長男として私が生まれるまでは一人っ子も経験して溺愛されてきたのが、姉たちの登場で自分の位置が脅かされていると感じていたのだろう。兄と母は明らかに共依存関係になっていった。
 父はだんだんと無口になり、家族の団欒も回数が減り、家族旅行もしなくなった。現存する写真を見ても、私が3歳までの写真はたくさんあるのに、それ以降は写真もろくにない。父の仕事からの帰りは遅くなっていき、帰って来てもすぐに二階の「書斎(酒飲み部屋)」にこもってテレビを見ているだけになっていった。

 こういう家庭内で緊張感がある状態の中で私は過ごしてきた。「三人の姉VS母と兄」その狭間で、なぜ仲良く暮らしていけないのか、どちらにも気を使い、無邪気を装い、時には母や兄に意見を言っては「お前は何もわかってないんだから黙っていろ」と沈黙を求められ、居場所がなくなっていくことを感じていた。父は気まぐれに私をかわいがってくれたのだが、あくまでも気まぐれだった。

 母は結局は姉たちを就職が決まりひとり立ちできるところまでは面倒を見て育て上げた。途中では父親の急死で生活に困った知り合いの息子(私と兄との間の年齢)を受け入れて育てるということまでした。基本的には面倒見がいい人なのだ。けれどもやはり兄が一番特別な存在であるということには代わりが無かったのだろう。この知り合いの息子を受け入れたのも私と兄との関係が悪化して兄弟げんかが耐えないのを変えるという意図もあったのかもしれない。

 兄は精神的に不安定だった。気まぐれで怒ったり怒鳴ったり、あるいは愛想良くしたり、私としてはまったく理解不能だった。兄は私が中学生の頃から私に酒の相手を求めた。最初は適当に相手をしていたのだが、だんだんと私も酒につかまって行った。高校生になった頃には兄が毎週末にアルバイトの給料で買ってくる酒を期待するようになっていた。非常にプライドばかりが高く、自分を大きく見せるのがとにかく癖だった。兄のこのプライドをちょっとでも傷つければ徹底的に怒鳴られ、ねじ伏せられた。
 勉強に関して言えば、だらしない割りに私は成績は良かった。特に高校に入ってからは急激に伸びた。浪人生だった兄にとっては私の方が勉強の方で成績が良いということも気に入らないと思う面もあったのかもしれない。

 私の心の方は小学校の高学年以降は固く閉ざされていた。兄とも酒を酌み交わすというところでは相手はしても自分の心の内の苦しさを吐き出すことはできていなかったし、兄との飲酒も最初は何気ない会話で始まり、途中でいい機嫌で陽気になり最後は大喧嘩の怒鳴りあいで終るというのがパターンだった。私は中三の頃小説を書いていた。稚拙なものであるが、すでに「死」を意識し、自分の中に時々突然訪れる「死」への誘惑を現実の「死」の醜さを描いていくことで「死」にはなんの解決もないという主題だった。「生きる」ということを積極的に肯定するというユーモアは持ち合わせていなかった。ただ「死にたくないから」「死んでも何も解決にはならないから」「生きている」という目的も方向性も見出せないけど生きている自分の苦しさが根底にあったのかと思う。もちろん自覚はしていなかったが。

 こういう育ち方をした人間にとって「実家」というものが「ほっとして安心できる場所」になるはずがない。「実家」はできれば二度と帰りたくない場所であり、自分にとってとても辛いものを思い起こさせる。特に父の死後、母と兄の二人暮しになった実家はもはや「家族の集合場所」ではなかった。

 ちなみに父の死に方は完全にアルコールに取り付かれた人間の末路だった。脳梗塞で軽い半身麻痺で仕事ができなくなり、酒量が増え、再度の脳梗塞で麻痺は悪化。糖尿も発症。そして三回目の脳梗塞で意識不明、糖尿の悪化による壊疽で右足切断、最後は院内感染での肺炎だった。
 「死因」だけ言えば「肺炎」だが、アルコール依存症者が死んでいく過程ではよくあることだ。
 「肝硬変」「糖尿病」「肺炎」といった死因の患者の中には、実質的にはアルコール依存症が大本の原因になっている人が多い。
 父が死んだ後、母は三人の姉たちに「手切れ金」として父の保険金からいくばくかを渡している。
 どうしても「和解」をする気にはなれないようだ。

 今日はここまで。


 

2008年8月21日木曜日

自分の建て直し

 自分が何でこの2年間壊れてきていたのか、何にストレスを感じていたのか、根っ子が見えるようになってこれからの課題もはっきりしてきた。自分の弱さが丸出しだったんだ。それもかなりひどいところまで土台が壊れかけていた。
 土台の再建には、壊れているところを直すだけじゃなくて、傾いてしまっていた上の方も改めて作り直していくことが必要なんだとわかった。

ミーティング・ミーティング・ミーティング・・・ミーティング漬けになって自分を吐き出し続けて仲間の声から自分の問題の根っ子がむき出しになっていく。なんて情け無い自分・・・とも感じるが、でも、これが自分。逃げていた頃に比べれば随分ましじゃない?
 
 まぁいいさ、こうして一日一日を確実に生きていくことができるようになれば、明日につながっていくんだからね。