2008年9月25日木曜日

妻への感謝2

 長男が難治てんかんで発作がおさまらないまま4歳で入院生活を終えた。そして自宅での生活となったが、妻は保育園への受け入れを求めて行政に何度も足を運んでいった。理由は長男のような重い障害を持つ子どもたちの母親も働くことができるような学校が終ってからの放課後の受け入れ施設作りを作る運動を始めていきたかったから。そして長男が6歳の時に実現した。最初は古い医院の跡地で部屋も狭く暗かったが、そこで障害を持つ子どもたちの受け入れをしていった。長男も養護学校小学部の後の放課後の時間をそこで過ごすようになった。

 妻は忙しかった。施設の運営と障害の重い長男の育児とで毎日走り回っていた。
 私は妻がいなくなった後の事業を引き受け、非常に苦しい運営だったが、子どもたちとのかかわりが楽しくて続けてこられた。だが私は飲み続けていた。もちろん朝酒はやらない、昼間も飲まない、けれども夜8時過ぎ、長男が眠ると(妻も一緒に眠る)私の全開の時間だった。ワープロでのniftyサーブでのパソコン通信やら読書をしながら飲んでいた。

 それでもこの頃はまだそれほど深酒を続けるというほどでもなく、休肝日も設けていられた。

 私がおかしくなっていったのはやはり学童保育の運動にのめりこんでいった頃だと思う。保育園父母との関わり、事務所での夜遅くまでのチラシ作り、その後の痛飲の日々。行政というものの理不尽さを怒りつつ、自分を自分で破壊して行った。

 妻が偉いのは、そういう私をほうっておくことができたこと。もちろんかまっている時間もなかったのだろうが、自分は自分、長男と自分の生活は決して乱さなかったし、私が乱せばそれを拒否した。
 長男の入学式も私は二日酔いだった。私は子どもの行事に出ることが億劫でわかっていて深酒をしていた。二日酔いなら許されるという浅はかな考えだった。
 
 妻はそういう私に何度か素面の時を選んではっきりと言っていた。翌日の予定に影響するような飲み方はしないで。

 私にとって、酒を飲むということは意識がなくなるほどの痛飲を意味していたから、ほどほどに飲むなんてことがわからなかった。

 私は事業関係の運動を続けるなかで、浮気もした。妻は長男を抱いて私とその女性が飲んでいるところにやってきて、「この子をどう考えているの、このこの将来に責任をもたないでいいの?」と私の心にわずかながら残っている良心に訴え、私は自分の卑劣さを認めた。

 しかし苦しかった。仕事でのパートナーも長続きしなかった。

 そして事業所の移転という問題が持ち上がった。私はもう自分ではどうすることもできなくなっていた。毎晩ブラックアウトするまで飲み続け、だけど朝酒は飲まない、昼間も飲まないという苦しい状態を4ヶ月も続けていた。8月の終わりの打ち上げで、私はいつもは一次会で帰る飲み会に二次会まで出てしまった。そしてそこで帰ろうとして足がもつれ、送っていってもらった。身体が異常に重かった。肝臓の辺りがパンパンに張っていた。

 その頃はもう家庭内別居だった。妻と長男は別室ですやすやと眠り、私は階段を挟んだ部屋で酒を身体に注入していた。

 9月3日、妻は私を病院に連れて行ってくれた。自分も目にヘルペスが出て酷く痛むというのに。最初は内科に行った。そこでは「酒は控えめにね」といわれただけだったからホッとした。しかし次に回った精神神経科で、「アルコール依存症です」「断酒するか、ボロボロになって死ぬかしかありません、どっちにしますか?」と言われてしまった。目の前は真っ暗だった。もう酒が飲めない??俺の苦しみを癒してくれる酒、何もかもかすんだもやの中に隠してくれる酒を・・・そんなのできるわけない!!追撃がきた「奥さん、こんな男はダメですよ、酒止める気なんて全然なさそうですから、もう離婚しなさい、関わるだけ大変になりますよ。ボロボロになって死んでいくんですよ」ぐぅーーーーーーーーーーーーーー!!
辛い数分間だった。身体がボロボロに重かった。これが楽になるのかもしれない、妻とやり直せるのかもしれない、長男を育てていくことができるのか・・・・・生きたい・・・・と思った。
 このとき私の断酒が始まった。
 妻は断酒で苦しむ私を支えてくれた。暖かく。妻の身体は、心はこんなに温かかったのか、それを全く忘れていた自分・・・失ってきた時間は戻っては来ない、でもまだ俺には時間がある。

 それから二ヶ月はとにかく自力の断酒だった。飲みたくなる心を怒りや叫びでごまかして、妻を抱きしめて止めてきた。だが自力だけでは限界があるということを医師からも言われていたので自助Gに行くことにした。職場の近く、家の近くで探し、会場に行くと、そこにはアルコール依存症者の仲間がたくさんいた。最初はわけもわからなく参加していたが、次第にいろんなことがわかってきた。
 アルコール依存症は肉体的にも病気であること。そして精神的にというよりも霊的に病んでいる病だということ。自分勝手で無責任で、移り気で飽きっぽく、何かに夢中になるとそればっかりこだわる性質を持った人間の集まりだということ。

 妻にも話をするが妻には理解しがたいところもたくさんある。とにかく酒を飲まないアルコール依存症者というのは奇妙な生き物だと思う。自分もそうなんだが。悪くなると酷い。あっという間に考え方が元に戻る。だが霊的なプログラムを実践していると結構有能で使える人になる。

 何とかとはさみも・・・という感じだ。

 とにかく妻は2002年の9月に私が断酒を始めてから私とのコミュニケーションをよくとってくれるようになった。そして2004年に次男を産んでくれた。私はワーカホリックになったり、買い物依存になったり借金魔人になったりして去年の11月に一口バーボンを飲んでしまった。2005年の秋からAAプログラムからそれてしまっていたからなのだが・・・。

 けれども妻は今も私を信じてくれている。私は今休職しているけれども、私なりの回復の道へと努力しているということを認めてくれている。

 私は妻を愛している。そして重い障害を持つ長男とかわいい小僧の次男を。私が自分を大切にしたいのは自分を取り巻く人々がみんな素晴らしい人たちだからなんだと信じていられるから。

 妻にありがとう、長男にありがとう、次男にありがとう、そしてこの世界にありがとう。

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