9月23日は私たちの20年目の結婚記念日だった。私たちは式をあげる金もない貧乏人だったから、籍を入れればいいや、と思っていたのだが、職場の父母たちが「そんなんじゃダメ」と言って、当時の職場があった団地の集会室で式と披露宴を行うことになった。
父母の職業は様々で、インテリアショップに勤めているお母さんがどこからか赤いじゅうたんを持ってきた。デザイナーのお父さんが白いタキシードを、そして保育士だったお母さんたちは壁面を飾ってくれた。もちろん子どもたちも同席。普段ぼろっちいかっこをして保育をしている二人がタキシードとウェディングドレスで現れたのには度肝を抜かれたらしい。女の子たちは妻の周りで「きれ~い」とはしゃぎまくり、男の子たちは口では化粧をしている妻に(仕事中は素ッピン)「気持ちわり~」と悪態をつきつつも照れていた。私にも「にあわね~」といっていたがみんなで歌を歌い、私たちは誓いの言葉を述べ、誓いのキスをした。一人のお母さんが記入済みの婚姻届をすぐ近くの区役所に届け、報告してどよめきの中で式が終わり、披露宴になった。私の母は出席してくれたが兄は出席しなかった。
二人の新婚旅行は国内の山めぐり。でも折からの不安定なお天気で私は途中で体調を崩してしまった。新居も最初の数年は二人だけでマンションを借りて生活した。
ドラクエを深夜までやって「結婚するってこういうことなの?」と怒りを爆発させられたこともあったし、部屋中粉だらけにして二人でピザを作ったりもした。
私は少し当惑していた気持ちもあった。なんだか人生のレールが引かれてしまったような違和感みたいなものを感じていた。
けれど妻はしっかりもので、私を上手にリードして生活のあり方を教えてくれた。でも私はその頃から飲んだくれで、たくさん迷惑をかけた。トイレと間違えて玄関で小便をしたり、どうしようもない甘えんぼでもあった。
結婚して2年、マンションの契約更新料を支払うのがバカらしいから、妻の両親の家を二世帯住宅に建て直して同居することにした。
妻は狭い敷地でいかに効率的で収納力のある家にするか設計に夢中になった。私はまだなんとなく妻の両親との同居に乗り気になれなかったのだが、妻の方針に逆らう気持ちにはならなかった。妻の判断は大抵正しい。家賃を払い続けるよりローンを払い続ける方が合理的だということは理性的にも理解できていたからだ。
二世帯住宅が完成して、同居が始まり、妻が身ごもった。職場で始めての産休を実現するために社会保険への加入を求め認められた。そしてラマーズ法での立ち会い出産を希望したので二人で親学級に通い、呼吸法の練習もしていた。
だが、どうも私の酒は改善されなかった。つい飲みすぎる。陣痛が来た時も私は飲みすぎていて事態がよくわからなかった。病院までタクシーで1時間の道を酒臭い息で「ひっひっふ~」と一緒にやっていた。いよいよ出産。妻の頭のところにいて声をかけ呼吸法をやるのだが、足元にコンセントがあって、私は二回コンセントを蹴飛ばして抜いてしまった。足元が怪しかったのだ。それで「退場」
長男が生まれた。このとき誰がその後の長男を襲う病気を予想していただろうか?生まれたときは普通の赤ちゃんだった。私は躊躇無く大好きな山の名前をつけた。
長男が6ヶ月検診で発達の遅れを指摘され、そして一歳のお誕生の一週間前にてんかん発作が始まった。「点灯てんかん」乳幼児のてんかんでは予後不良ケースが多い悪質なてんかん発作の一つだった。母子分離で入院させられ、夫婦で泣いた。医師は「この子はもう笑顔を取り戻すことはないかもしれません」と宣告してきた。
妻はなんとしても長男のてんかん発作を治すということを決意して母子で入院ACTHという副腎皮質ホルモン分泌促進剤の投与では長男は頭痛がひどいのか全く眠らなくなった。一週間で数時間の睡眠。抱っこして暗い夜の病院の階段を上り下りする時だけうとうとする。ベッドに下ろすと起きて泣き出す。4人部屋(赤ちゃん四人+付き添い)で劣悪な環境だった。冬だったのでヒーターのパイプからわけのわからない「かん・こん・かん・こん」と大きな音がして神経を尖らせていた。一月半の入院で一旦発作はおさまったが、つかのま、また再発した。今度は下調べを十分にして静岡の国立専門病院に入院することにした。妻の退職金などすずめの涙。発症前に長男に子ども保険をかけていたので入院費用に困ることはなかったが、一ヶ月のうち半月の入院、半月の帰宅という不規則な生活の中、私は家の中での居場所が弱くなって酒が増えていった。
妻と子どもが静岡から帰ってくるという日にも私は二日酔いで迎えにもいかなかった。この頃から私は自分のことばかりを考えるようになりがちになっていた。長男のことばかりで精一杯の妻、それなのに自分のこともかまって欲しかった。自分は妻を支えるのではなく、妻に甘えたいという気分だった。「長男のことばかりで俺はどうでもいいのか」・・・今から思うと恥ずかしい。自分は一家を背負って立つ「父親」でもなければ疲れきった妻をいたわり支える「夫」でもなかった。ただ長男が妻を独り占めにしていることにふてくされている図体だけでかいただの「餓鬼」でしかなかった。
続きは明日
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