「アルコール依存症」という病名から連想されるのは、朝から晩まで酒を飲み続け、借金をして、家族を傷つけ、何もかもこわし、最後には自分の身体も壊して死んでいくというもの。実際そうなんだけどね。私の飲み方は案外違っていた。朝酒は飲まなかった。昼間も、仕事中も酒は飲まなかった。けれども夜8時を過ぎるとウィスキーやウォッカ、ラム、テキーラなど強い酒ををストレートでぐいぐい飲んでブラックアウト(気絶)するまで飲んでいた。つまり私にとって酒はコミュニケーションを円滑にするためのものではなく、自分を眠らせるための薬物だった。
ある医療関係者が言っていた。「アルコールが、もしも20世紀に発見されていたなら、ヘロインやモルヒネのようにみなされ、非合法的な医療関係者にしか使用が認められない化学物質としてみなされていただろう」と。だが、アルコールは人間が文化を作り始めた頃から身近なところにある手軽な飲み物として存在している。そして多数者はこれを上手に使ってコミュニケーションを円滑にする「道具」としている。「アルコール依存症」になる人は、まず体質的にアルコールに強く反応する。アルコールによる「酔い」の感覚の快感が他者に比べて強い。そしていろんな事情(生育歴、体験的なトラウマ、性格的な弱さ)などから現実のすさまじさを直視しきれない。実際は多数の人が現実のすさまじさの中で自分の居場所を作り、自分の能力と折り合う生活を見出していく能力を持っているのに、この病気になる人は様々な弱さが絡み合って、すさまじさの方にばかり目が行ってしまって、自分の居場所を作ることができない(作りきれない)し、自分の能力を過大評価するか過小評価してしまい現実との折り合いがなかなかできない。そのため、酒の酔いの妄想の中に自分を求め、時には酔いに任せて暴力的になり、あるいは引きこもってしまう。どちらに進んでも社会からは孤立を深めていく。特に自分の身近な人に強い共感を求めるあまり(依存)その共感が得られないとなると攻撃的になったり自己否定感を強く感じてしまったりする。
回復には「断酒」すること。これがスタートライン。そして断酒したまま自分が壊してきたもの、家庭・仕事・金銭感覚・社会との折り合いを再建していくことに取り組んでいく。普通の人が普通に生きるという日々の生活が、我々にとっては非常に多くの苦痛や退屈を感じさせる。普通の人とはビジネスライクな付き合いはできても、それ以上の感情的な共感というものまで感じるのはなかなか難しい。そこで自助グループが必要になる。同じ病気で同じ気質のもの同士、同じ生きづらさを抱えているもの同士で自分の生きづらさを吐き出しあって自分を軽くしていく。
AAの12ステップはきわめて有効なもの。自分というわけのわからないものに思い煩っているから生きづらさを増していってしまう。だから自分を「神」に預けてしまい、自分を「道具」にする。それには自分の過去どうであったか、何が起きて、今どうなっているか、を明らかにして、自分を生活する道具として、今苦しんでいるアルコール依存症者の手助けをすることができるという一点において価値を見出していく。仕事は「生活していく糧を得るための道具」でありそれ以上でもそれ以下でもない。家族は自分に与えられた財産。そして自分は単に神に与えられた役割りを果たすためにこの世に送り出されてきた一人の人間でしかない。思い悩むのはやめて、実務的に生き、喜びながら生きればそれでいい。
ただ、未だにこの病気は多くの誤解を受け、「精神異常者」とみなされ、「汚らわしいもの」扱いされているのも事実。糖尿病の人がインシュリンが手放せないように、心臓病の人がペースメーカーを手放せないように、足が悪い人が杖を手放せないように、私たちは自助グループを手放せない。それだけなんだけどな。
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